じゃがいもはまだ遠い

仕事中に思うことがあって、考えごとをしながらその後も一応は働いて、じゃがいも3つを薄くスライスし、細く細く千切りにしながら、

「私って何なのだろう」

ということを考える。

私は他人様から見てどう思われているのだろうとか、この私とは何かとか、そんなことはだいぶどうでもいい季節に突入していてほんとどうでもいいのだけど、じゃあ私が考えたいことは何かというと、限りなく透明で空気に溶け込んだような感覚か、ああ、この私が体を動かしているねの感覚で体が引き裂かれるしかなくて、その中道みたいなものが昔から無いのかもしれないなあ、ということ。そういうものなのだろうか。そういうものなのかも。大体において、私は後者のモードで駆動している。この文章を書く少し前(じゃがいも細断中)は前者に近かった。この揺らぎは久々な気がする。社会性と自分が一致しないというか、自分ちゃんと働けてますか、人とやっていけてますか、人間ですか、という不安に襲われるのであった。まあ、経験則からいって、やっていけてるのかよく分からなくてもちゃんと社会生活を営んでいることは分かっていて、まあ大丈夫なのでしょうと思う。経験というのはありがたいお守りのようだ(もちろんそれを信じ込むのは危ない)。この離人感みたいなものを感じるとき、自分の体がペットボトル半分くらい軽くなり、すうすうとする。

日中の私が、人間と支障なくコミュニケーションできていることにびびる。今この瞬間だってやろうと思えばできるだろう。それはとても恐ろしいことだと私は感じる。

千切りにしたじゃがいもを炒める。一度作った時より上手くできていると感じる。ささっと炒めて、皿に盛ってこれは明日食べることにして、でも少しだけ食べたいから指でひょいとつまんで口に入れるとシャキッとした食感が気持ちいい。

その感覚はわかるでしょう? わかる。ただ、まだちょっとだけ遠い。頭が重い。体は軽い。