綿あめみたいな人と私の幻想

 人と会話するときに「えらく疲れるなあ」と思うことが度々あり、そこには何があるのだろうということを考えている。

 他者に対する期待値がめちゃめちゃ低いので、大抵の人と会話しても、そのやり取りで好悪の情が湧くことはあまりない。小説を読んでいると「こいつ、いけすかねえ奴だな」みたいに主人公が相手をこき下ろす描写とかがあるのだけど、いまだにあの事象がわからない。自分が思っていることを都度都度言語化なんてしないのだが? ただ直感的に、生理的に「この人むりっぽーい」という相手はいて、そういう人とは無難に話を収めて極力関わらないで済むよう振る舞うというのを心掛けている。離れていれば何てことはないのだから。

 つまり、人と会話するときに、相手が直接起因で疲れることはあまりない。じゃあ、何で私は疲れているのかというと、すべて自分の中で拵えた幻想なのである。

 具体的には、確固たる自分の意見を持っていないように思える人と話すとき、えらく消耗するようだ。

 私は自分の意見をめちゃめちゃはっきり言う。意見が定まってなくてよくわかっていないこともたくさんある。その場合は「すいません、よくわからないですけど」とか「今はよくわかってないのでもう少し時間ください」とか、わからないということを率直に伝えるタイプだ。大概のボールは打ち返せてしまうのが個性である私の一方で、ボールを見送る人というのが時々いる。自分の意見が綿あめのようにふわふわな状態の人。

 私はそれが悪いことだとはまったく思っていない。個性のひとつだから。

 ただ、私はそういう人と接しているとひどく消耗する。自分の言葉がその人にどんな影響を与えたのかまったくわからない。わからなさが霧の中で乱反射して、めちゃめちゃ考えるので疲れる。この人は私の言葉をどう捉えたのだろう、傷ついていないか、嫌な気持ちになっていないか、ぴんと来ていないのか、悪く受け取られたらどうしよう、などなど。

 人を傷つけるのが嫌。確かにそう。でも、ボールを投げて「あ、相手は痛かったのかもしれない」と思えたら身の振り方を考えることで消化できる。謝りたかったら謝ればいいし、強く言いすぎないようにしよう、こういう表現は直そう、自分の考え方は見直そう、いくらでも次の行動ができる。ただ、綿あめな人は痛かったのか、痛くなかったのかもよくわからないから、反省しようがなくて私は消化不良に陥るみたいだ。

 ここまで書いて、綿あめっぽい人が悪いわけではないことを重ねて強調しておきたい。どちらかというと、神経質な自分の問題なのである。

 私は自分の力が強いことを知っている。確固たる価値観みたいなものがあるし、スタミナもある。だから、自分が誰かを粉々に握りつぶしはしないかと、怖くて仕方ないのだ。まあ、そういう「慎重さ」みたいなものをもっと持ってほしい人々はいるのだが、それはさておき。

 なので、「この人私が何言ってもどうでもいいのだろうな」という人相手に話す方がよほど気楽で、まあ、それもまた別の話である。

 結局は私が作り上げた幻想でしかない。気になるなら本人に聞けばいいし、そもそも自分が不安になるような物言いを相手にしなければいい。が、幻想は際限がなく、いくら自分を宥めても、くよくよと考え続けてしまうのだった。際限がないから自分でどこかで折り合いをつけないといけないよ、ということを理解しているだけ大分マシになったと言えるだろう。

 

 ここまでの話もすべて私の幻想。まったく、大体のことは自分が作り上げた幻なんだよなあ、と思って空しくなる(だからこそ救われるところもある)。