黒のランドセルが似合う女の子

 本を2冊返却して3冊借りた。借りたものとは別で、3冊並行して本を読んでいる。読み終えられるだろうか。今の時点で見通せないから不安である。山の中を歩いているような気分。もちろん、歩くことそのものを楽しめばいいわけだが、そうなると、視界はもっと狭くなって、本と私と生活と仕事、みたいな非常に狭い世界が作り出される。そのクローズドな感じに私はぎょっとするわけである。ただ、視野を広くとると「ああ、読み終えられるだろうか」という不安が登場するので悩ましいというわけ。「であるべき」じゃなくて「でありたい」の呪縛はなかなか否定できず厄介である。「~であるべき」なら「必ずしもそんなことないでしょう」と言えるのに、本人が「でありたい」と願っている以上、止めにくいのだ。読み終えられそうなのが2冊。最低でも2日。ゆったりとやっていきたいところ。

 腹筋と背筋と腕立て。筋トレ三種。必要最低限の筋トレということで寝る前にやってみるのはいかがだろうか、と自分に提案する。「結構いい感じ」というのが答えだった。ひょいひょいと数をこなせていた時代の記憶は健在で、記憶と現実のずれにびびる。特に腹筋はまた一から鍛えないと無理そう。昔の私はえらかった。でも、えらかったというか、そういう風にシステムが出来上がっていたからで、これからまた作っていけばいいんじゃないの?ぐらいの楽観的な前向きな気持ちなので大丈夫。目的なき行為は気楽で明るい。

 なーんか、みんなどこか行っちゃうのよねえ、と愚痴をこぼしたい気持ちで。多分向こう側からすると「そんなのこっちが言いたいよ」って感じだろうけれど。人間関係というのは惑星の公転の瞬間的接近の1点でしかないんだよねえ、おそらくは。気がついたらお互いまたどこかに行ってしまって、また会うのは何十年何百年、みたいな。そういうものなんだよ、と自分で自分を慰めることにする。みんなどこかに行ってしまう。私も気がついたらどこか違う場所にいる。

 昨日、ドトールの前を歩いていたら「私が今、小学生をするならば、絶対黒のランドセルにする。黒のランドセルが似合う女の子になる」と思った、そのことを思い出す。登校中の小学生を見かけたわけではない。

 関東の国営公園だと、立川の昭和記念公園か茨城のひたちなか海浜公園か埼玉の武蔵丘陵公園(本当はもう1個あるけど割愛)で、いずれもサイクリングロードがあってもちろん私はレンタル自転車で走破済みで、すごく楽しかったんだよな、という思い出話。無垢な楽しさというか、予想できない、自然発生的驚きに満ちた楽しさだったからずっと覚えていると思う。とりとめもないくだらないことをうだうだ考えるのも楽しいけれど、その楽しさと種類が別で、意図的に作り出すことはできない、偶発性の高いもの。

 今日も一日終わり。感情を持て余している気がするが、言葉を与えられない。