ルーズリーフは重ねない

 私の文章ではたびたびルーズリーフが登場する。学生時代から使ってきた勉強道具。私は断然ノート派ではあるが、ルーズリーフにはルーズリーフの良さがあり、だからこそこれまでルーズリーフとの縁を切ることができないでいた。

 また、昨今はデジタルな時代だ。手書きで紙に書いているなんで愚の骨頂では、と自分でも思う。そうしている人を馬鹿にはしない。むしろ私はデジタルよりも紙を愛しているので駆け寄って握手したくなるほどだ。

 私は紙に愛着を持ってしまっている。そこに心地よさのようなものを感じている以上、デジタルのツールを用いて学習するのは一旦やめにしよう、というのが、ここ最近私が改めて下した結論である。

 ということで、今、私の手元には5枚のルーズリーフがある。1枚目は昨日も書いた通り読みかけの本の目次を手書きで書き写したもの。読書が低調であるときは、目次をトレッキングポールに読み進めると幾分楽になる。具体的には、一つの区切りを読むごとに目次に目を落とす。ああ、またひとつ階段を上れたのだわと自分を鼓舞する。そうしてまた本をひらく。2枚目は視聴している動画(ちゃんと真面目な動画だ)で気になるところをメモしたもの。細々と動画を見ているので、そのたびに手に取ってメモをする。3枚目は個人的な勉強。4枚目は読みかけの評論みたいなもののメモ。5枚目はなんだったか、これもまた別の本の目次(書きかけ)だ。目次というのは、やってみるとわかるけれど、とにかく量が膨大だ。ああ、書き終わらないと思ったときは、一度中断するのがいい。無性にただ文字を書きたいときにそういう書きかけの目次を引っ張り出してきて、無心で文字を書く遊びに使える。

 さて、今、私はすらすらと5枚のルーズリーフの内訳を書き連ねたわけだが、何故それができるのかというと、ルーズリーフをファイリングしていないから。さらに言うと、5枚をきっちり重ねないで微妙にずらして机の上に広げているからである。

 以前もどこかで書いた通り、自分は見えないと本当に記憶の底からものを引っ張り出せない人間なので、やりかけのものは広げて見えるようにしておかないと忘れてしまうのだ。そうして台無しになった試みがどれくらいあっただろう。忘れてはいけないことは覚えているのが厄介で(それは同時に素晴らしいことでもあるが)私は忘れてしまうガラクタのような思いつきにこそ楽しみがあると思っているので、取り返しのつかないミスはしないけれど、自分の楽しみが阻害されているように思われるこの気質を少しだけ恨めしく思っていた。

 ルーズリーフは、紙として分ければ、文字を使って書けるものであればいくらでも同時進行的に取り掛かれる。この点はノートと差別化できるところだろう。

 ルーズリーフを広げられるスペースが私の「快楽」の幅なのだと思って、とりあえずはこのまま遊べたらいいと思っている。明日の私、お願いだからルーズリーフを重ねないでくれ。重ねたら最後、私は自分がやっていることを「忘れて」しまうだろう。