真綿と純

 疲れたい、と思うことがある。そういうときは自ら肉体的に疲れることにしている。ジョギングか水泳でもすれば短時間であっという間に追い込めるけども、自分に甘い私は追い込む方法を間違えると走ることも泳ぐことも嫌いになりかねないので、歩くという方法を用い己の首を真綿で絞めていく。15キロくらい。とにかく歩きすぎて疲れた。

 

 唐突な話になるけれども、「純日記」という言葉、この文章を書くまでまったく気にしたことがなくて、「無」に近い言葉だったのだけど、そこから一歩踏み込んで今日は考え始めてしまった。純、って何だよ、とは思う。ただの日記じゃ駄目なのか。日記と純日記の違いは何なのだ。違いがあるとすれば、それは書き手側の意識にあるものだと思う。「純」という言葉がつくからには、それだけ思いが込められていると考えるべきだろう。

 純粋という言葉には、殊更に労力がかかっている、という意味が含まれている、というのが個人的なこの言葉に対する印象で、純粋を維持するのって、端的に言って大変じゃないですか。透明なスープができるのは、何度も何度も濾すという手間をかけているからでは?それなら、純日記にはどんな手間がかけられているのだろう。何が省かれているのだろう。違う。多分なるべく省かないように丁寧に書くのが純日記なのかも。そう考えると面白い、私は純日記書けなさそうだ、というところで考え事は落ち着く素振りを見せつつ、やっぱり、その説明だと、純がついていない日記と、純日記の区別がわからない。あ、だから書き手の心意気に寄るということか。この話はここで終わり。