退屈

 時刻は朝の7時43分。電車の中で私は退屈を持て余している。

 用意に手間取り、持ち歩く本を選び損ねた。苦し紛れに、その辺に置いてあった文芸誌一冊を手に取って手提げに入れたが、読む気は最初から無い。

 車窓から見える景色は光に染まっている。どの建物も朝日がべたべたと塗りたくられている。明瞭な影が生まれる。建物の背景には白っぽい冬の青空が広がる。

 次の瞬間、私はこう思う。

「なんだ、退屈ではなかったのか」

 そして、そう思った途端、「やっぱり退屈だ」と思い直す。車窓からの景色は消えていた。少なくとも今この瞬間の私にとって、あの景色は存在しない。存在しないから退屈。退屈だから存在しない。まったく、自分は何をしているのだろう。

 退屈を紛らすということは、つまりこういうことだった。何かを考えるわけでもなく虚空を見つめ自己に対する眼差しを捨てきれない状態を退屈だとすると、そこから脱すること。

 隣の女性は銀色の爪をしている。『オズの魔法使い』の銀の靴、だ。女の爪が、コツ、コツ、コツと机を鳴らす。踵で地面をトン、トン、トンと打つ。

 記憶の底から浮かび上がる概念としての靴を、できるだけ正確に頭の中で描こうとする。踵は5cmくらいの高さでピンヒールのように細くはない。むしろ安定感がある堅実な太さ。ラメでぎらぎらしているというよりは、エナメル質につるっとした仕上がり。
私だったら(私だったら)踵で思いっきり打ち鳴らす。3回鳴らして、さて、どこへ行こう。

 ガコン。乗り入れ路線の多い駅に着いた。ドアが開く。水の流れのよう、電車の中はかき混ざった。急いで下りようと突っ込んできた背の高い女に押され、よろめく。銀の靴はどこかに行ってしまった。顔のない群衆があちらへこちらへ行き急ぐ流れに揉まれ消えた。

 私はトントントンと踵を打つ。銀の靴を呼び戻すために。