不安(メモリ使用率を減らせ)

 もう自分のことについて、自分の内面を掘り下げるスタイルでもの書くのはやめよう、というのがこのブログの出発点で、だからこのような文章を書くことはやりたいことではない。少なくともそういう気持ちでは書いてきた。実態は理想と異なるかもしれないけれど。きれいじゃない。書いても終わらない。私はいつも終わらせられるように書いてきた。書くことは、葬送と似ている。お別れを言うこと。不安は終わらない。終わらないものは書きたくない。ただ、今回は「面白そうだから」という理由で書いてみる。

 アニメ「チェンソーマン」のサントラをぽちっと予約する。サブスクで聴くことができるけど。それに原作もアニメも見てないけど。EP Vol.2の最初のトラック「livingroom」が特にお気に入り。それをリピート再生しながら書き始める。

*** *** *** ***

 自分は感情的な人間だと思う。実際どうだろうな。感情的か、理性的か。要は配分の問題。理性的な側面は年々増している、気がする。何の為? 生きる為? あとは、感情ってのは疲れるものだから。感情の起伏の激しさは己を摩耗させるのだということにどこかで気づいたのだと思う。

 

 嫌悪の感情はあるけれど、怒りの感情があまりない。理解できないものがあるとき、「何故私はそれを理解できないのか」「何故私と相手で差が生じるのか」ということを考えるのが楽しいから怒らない。例えば、大体の政治トピックに対して「そりゃねえだろ」と思うこと多しだが、「怒る」というよりは「何故」が先行する。「何故」を考えたところで何にもならないことは理解しているが、どうしても考えてしまう。それがおそらく私にとって安全で消費カロリーの少ないことなのだろう。

 

 自分の不安について、論理的に検証していくことは可能だ。感情は切り分けられる。ただし言葉で説明できても感情が追いつかないということはある。そして私は感情が追いつかないと極端にパフォーマンスが下がる。パソコンでいうとCPUの使用率が上がる感じ。懸案事項はばっさばっさ捌かないと日常生活を送るのがハードになっていく。

 マシンの例はあくまでイメージ。メモリの使用率は日頃からどんどん上がっていく。出かけることはメモリを開放することに似ている。だから私は定期的にどこかに出かける。多分、一番いい方法。肉体的には疲れるけれど、それは眠れば回復する。運動は強度が足りない。映画も効果的だけど、映画について考えることで新たにメモリを使うから使用率の下がり具合はいまいち。CPUの使用率についてはお出かけではうまくいかない。対症療法にはなるけど抜本的改善にはならない。やはりリソースを食っている何かを片付けないと下がらないのだ。

 

 書くことは生きることを面白くする為の手段のひとつだったし、今もそれは同じ。

 

 夢がなくて希望もない。絶望も実はない。だからどこにも行くところがない。

 

 何もないけど、何もないなりに人生で今が一番楽しいと思う。毎年それを更新していると言える。それが強がりでない確証はどこにもない。主観的な評価だから間違っている可能性はあるけど、でも、自分の人生は自分で評価する以外ないのだから、その評価が「正しい」のだよ。

 

 どうして不安に思うのか。そこには「正解」がある。「正解」から逸れていないか、それに怯えている。「正解」はないのにね。テーマに則って粛々と生きればいいんじゃないの?

 

 という話は、普通誰かに話したりはしない。それでいい。極めて表層的な会話が慰めになることは往々にしてある。

 

 私はもう二度と愛玩動物を飼わないと決めている。

 誰かが(何かが)死ぬこと自体はそこまで悲しくない気がするが(それは摂理だから)(でも、暴力的に強引に捻じ曲げられた摂理は嫌)そのことに対して誰かが悲しむ姿を見るのが嫌いだから、誰も(何も)死なないでほしい。

 

 どうして(どうやって)生きているのかわからない、というのは昔からの関心で、他人の生活の断片に出会うと私は嬉しい。そこには私の未知がある。朝食とか特に。

 服が苦手だった。何を着ればいいのかわからなかったし、何を着たいのかもわからなかった。食べものはその点簡単だ。嫌いなものは避ければいい。ファミレスに行ったら一番安くてお腹いっぱいになりそうなものを食べればいい。でも洋服は値段は大体一緒だからわからない。センスもわからない。いまだに洋服を買うのは苦手。

 

 語ることそのものは動的な営みだけども、語られるものは結果でしかなく、この世はたくさんの結果で溢れていて眩しい。何者でもないということに留まること。その為に必要なことは何か。

 

 自分に関するあらゆる説明をアイデンティティにしたいところはある。でも、進むことができないならその装飾品は不要だと思う。

 

 日記、書けていない。でもそこまで体調が悪くないのは色々ある。「できていない」という感覚を極力作らないようにすること。「○○やってない」「△△できていない」が自己肯定感を削ぎ落していく。とはいえ、日記書きたい。今使っている日記帳がべらぼうに分厚く、そのフットワークの重たさが厄介。本来この文章は日記に書くべきこと。

 

 知識が溜まっていかないのでやり方を変える。なんでも忘れてしまう(というか非言語の領域に収納されちゃって不可触)。飽き性の対義語は凝り性らしい。どう考えても私は前者。没頭しきれない。狂えない。何かを深めていくことができないなら、それに相対した何かをしていく必要がある。

*** *** ***

 寒くなったことだし、散歩の帰りにコンビニであんまんでも買おう。