車内で目撃した潔癖さについて

過敏な人を見ると心惹かれる。異常、極端、逸脱はいつでも関心の対象になり得る(それを「異常」と呼ぶことに対しての深慮は必要)。はみ出すことがない個性というのも、また同じく。

斜め前に座っている女は先ほどから文庫本に読み耽っている。かけられた水色のカバーはかなり古くなっていて、端がぼろぼろだ。やや癖のある黒髪ロング。黒縁メガネ。街中に溶け込むことのできる風貌(通勤する人の多くはそうだ)。

メガネの女の隣に女が座っている。若い女性。腿の上に置いた黒のリュックをぎゅっと抱いて固く目を瞑っている。

黒縁メガネの女が、徐に何かを払う仕草をする。邪険に、という言葉が似合う。隣で眠る女のバッグの紐か何かが自分の「領土」に侵入したようだった。メガネの女はそれを強く、払った。

私はそれを面白いと感じた。生真面目そうな人だなと思うし、少し怖いな、とも。そんなに強く払う必要はないと思うし、そもそも電車の座席なんてそれくらいの「領土」侵犯はよくあることではないか? そうして腕と腕が触れた。またささっと払われる。隣に座る人はあまりいい気持ちはしないだろう。

私が惹かれるのは、「電車の通勤」という日常的な行為から少し浮く、黒縁メガネの女の「潔癖さ」のようなものだった(私はそれを仮に呼ぶ)。その「潔癖さ」を持ちながらこの人はどう生きているのだろう。その「潔癖」さを持ちながら生きていけるのだろうか。それが気になる。可能であれば気が済むまで追いかけたいくらいに。ああ、女は途中の駅で降りてしまった。残念。

黒縁メガネの人は私にそう思われていたことを知らない。そして私もまた誰かに観察され得るわけで、さて、どう思われる(思われている)のか、情報としていつも気になる。