透明なボートの底から

 その頭頂部に思いっきり斧を振り下ろしてあなたの心とやらがわかるなら、手に持った小さな斧を振り下ろしてみてもいいかもしれない、と思う。嘘です。そんなことをしても「心」とやらはわかりません。それに、私が知りたいのは、心じゃなくて、あなたが見ている風景とか、あなたが考えていることであり、それは私による一方的な暴力です、趣味です、コレクトです。

 

 ということを他者といるときに考えたりはしないので、やっぱり一人でゆったりと考える時間が一日のどこかで欲しいと思う。

 

 自分が信じられないという感覚。「自分の能力や価値などが信じられない」ということではなく、自分の考えは嘘である、正しくない、所詮は間違っている、サンプルのひとつである、という感覚。自我のようなものはある一方で、それはあくまで仮であり「振り」をしているという考え(これもまた仮説)。まあ、悪くはないのかもしれない。色々とアイデアを膨らませては乗り換えることも可能で身軽。

 

 衝動的にNICEなバッグとNintendo Switchを買う。それなりに根拠を積んだ上での買い物だし、バッグについては長く長く長く使う、絶対使ってやるという執念を織り込んでいるので大丈夫だろう。後悔はない。元々少しずつお金を貯めて(一括で買ってもいいのだけれど建前として)買おうと思っていたバッグの価格は7万円で、それよりはるかに安い(それでも高いけれど)価格帯なのでむしろ都合がいい。

 Switchについては、今の生活ではたしてゲームをする時間を捻出できるのか疑問だが、やりたいゲームをリストアップしている時間は心が躍る。一つひとつのソフトをゆっくりと丁寧に遊ぶつもり。

 

 悲嘆に暮れることに飽きた。

 

 ここ1年ずっと読みたいと思っていたエッセイがあって、やっぱり読みたいなと思いそのうち購入して読もうと思う。バッグとSwitchを買ってしまったので来月か。別にいつ買おうがいいけれど、買い物というのは一つのイベントなので、存分に楽しむべく分散させるのが私のやり方。バッグとSwitchは例外。

 

 「どうでもいい」の解像度を上げる必要がある。細かく分解する必要がある。何がどうでもいいのか。うまく言葉にできない。他者と自分を比較することは困難。だからこれから語ることは私の想像なんだけど。自分はあまり欲がない。人に好かれたいと思わないから自分をよく見せることに興味がない(これは「問題である」と思っている)。服も滅多に買わない。化粧もしない。人に執着がない。執着がないというより、ずっとつなぎとめることは不可能という諦め(それを執着がないと呼んでいい?)。ものも買わない。買うのは本か文具かバッグか靴。バッグと靴がなければどこかへ行くことはできないからそれはちゃんと買う。動物園、植物園、水族館、美術館は好きな空間だと思う。映画やアニメ、漫画、ゲーム、アイドル、音楽。それはあくまで人生の色どり。日々を豊かにするための要素。「なくてはならない」ではない。あ、音楽はあったほうがいいかも。そういう人間に何がある?と思ったときなんにもなくて、だから私は毎日何かを書こうとしている。このブログ然り、ノートに書く日記めいたものだったり、あるいはデジタルのメモだったり、あるいは創作のテキストかも。私のどうでもよくないこと。何かしら書くこと。それは「どうでもよくない」ということにしないと、本当に何もなくなってしまうからということ(まあ、他の代替物は見つかるのかもね)。こんな人間と、例えば社会問題とか政治の問題は非常に絡みづらくて、水と油みたいになっているけれど、やっぱり関心を持たないと駄目だよなあという気持ちだけで食らいつくことに限度はあるだろうか。あると思う。でも食らいつかないと駄目だ。自分事として考えたとき、極端に生活水準を落として落として落としまくってもなんか生きてしまえそう(適応してしまいそう)な気配はあくまで思考実験でしかなく、実際そうなったら私どうするの?という妄想は実際よくする。あとは私はいいけれど、困っている人がいる、間違いなくいる、というところに私がどう応答するのかという問題。しかし、現状、特に欲もなければ不満もないんだが、になるので混乱するのだ。そういうときそっくりそのまま「私死んだ方がよくない?」と思ったりする。理由は不明だ。

 

 透明なボートの底から海の中を見てみる。なんにせよ私は生きている、と思う。それを喜劇と呼ぶか悲劇と呼ぶか。書かれればそれは全部物語。