眼が書けない

 タイトルの通りである。最近の私は「眼」がうまく書けない。「眼」?「眼」という漢字である。

 日々、ノートに好きなことを好き勝手に書いている。「眼」の使いどころなんてあるのだろうかと自分でも思うが、例えば「眼鏡」とか「観察眼」とか? とにかく、今日もペンを持ちノートに向かって、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなくかきつくっていると、む、眼が書けん、となったわけである。

 「眠」と間違える。あるいは、目偏までは書けるのに、つくりのうしとら(艮)が書けない。手が止まって、少し考え込んでからゆっくりと探り探り書き出してようやく正しい文字を導き出せる。

 漢字というのはそんな風に解けるタイミングが定期的にやってくる。

 同じ漢字を何回も何回も書いたときに、線や点の集まりを漢字として認識できなくなるのがまさに「解ける」だと思うが、何もしていないのに、解けることがある。歩き方がわからなくなる(次に出す足がどちらなのかわからない)ときの感覚と似ているのかもしれない。自明というのは、無意識の複雑な処理によって維持されているものなのだろうと感心してしまう。

 個人的な記録に誤字脱字は当たり前、だから別に書き損じのようなものがあっても一向に構わないが、流れに乗って澱みなく書いているさなか、「眼」でぴたりと手が止まるのがちょっと腹立つ。いつになったら安心して心置きなく「眼」を書けるようになるだろう。