「親友」や「幸せ」の熱

 ちなみに私は「親友」という言葉が昔からたいそう苦手で、「あなたの親友は」なんて聞かれた日には気持ちが悪くて吐きそうになったわけです(実際はそんなシチュエーションなんてない)。曰く、私は「親友」に恐怖する。どうして「親友」だと言えるのか、言い切れるのか理解ができなくて、例えば芸能人のAさんがインタビューで「自分の親友Bと先日買い物に行きまして…」なんて言い出したら「正気か!」とびっくりするのだった。何故親友だと言える? どこでそれを確信する? 親友同士の間に揺蕩う親密さ、柔らかいけれど確固たる壁、も苦手だった。あなたと親友になりたいわけじゃない、でも自分が疎外されたように感じる。何故。親友と、親友以外という区分が生まれるかが理解できない。そして勝手に「親友以外」とカテゴライズされるのを理不尽に思う。同時に「親友」に割り振られたとしても(実際はそんなことないけど)「お役を全うできる」気がしない。気が狂いそうになる。

 

 「幸せ」ってのも、「親友」と似ているよなあ。

 インスタントコーヒーを啜りながらそんなことを考える。シュガーを大量に入れたインスタントコーヒーは泥水のように見えなくもないが、もちろんおいしい。

 

 誰かが「これが私の幸せです」と言い切る。その力強い口調に私はまた恐れを抱く。人間は生きながら幸せを目指す生き物なのだろうか。よくわからない。それは私がある程度の「幸せ」を手にしてしまっているからなのだろうか。もう何も目指せないのだけど。それに、人の「幸せ」は「はかいこうせん」のような衝撃がある。食らうと束の間動くことができない。

 そうですね、よかったですね、で?

 どうか建前で喋ってくれ、と思う。あなたの大切なものを外殻を剥いた状態で差し出さないでくれ。それは劇薬なんだ。その熱っぽさは、実際に熱を持っていて、とても高熱なんだ。火傷するぐらいに。持っている本人はきっと気づいていないだけで、それ以外の他人にとっては、とても、熱い。