私たちは友だちになれるのだろうか

  カルボナーラを作りながら「久々だけど…」と壱百満天原サロメ嬢の動画でも聴くか(見るではなく聴くです)と流してみる。リスナーとのやりとり。気さくである一方で一定の節度も維持されているのは明らかにサロメ嬢の持つ力によるものだと思う。

 親密なやりとりをなんとなく聴いていると、頭の奥深くから言葉が浮かんできた。それがタイトルの「私たちは友だちになれるだろうか」である。

 この「私たち」は、サロメ嬢と私、という具体的な個々人を指すのではなく、もっと抽象的なものを指している。

 そもそも私は友だちの定義がわからないし、自分の中でも作っていない。親友という言葉に恐怖めいた感情を抱く人間で、だいぶ拗れている自覚はあるのだが、本当に友だちというのは何なのだろうと思う。そして考えるのをやめた。考えることは無駄ではないが、考えても答えが出ないこともあるし、考える過程を十分楽しんだから。やめた。

 友だちという言葉に傷ついてきたのだろうなあと思う。あなたは友だち。でも君は違う。そう暗に示された時の悲しさったら、結構心にくるものがありませんか。人類皆友だちでもいいじゃありませんか。それができないなら、こっそりとばれないように友だちごっこでもしてろよ、とか思ってた子ども時代でした。最悪ですね。まあ、それはさておき。

 友だちになる、と、友だちである、は全く別物。前者は行為であり運動、後者は状態であり結果。友だちになることは可能。不可能なことではない。友だちになりたいと願うことも可能。そしてそれを達成することも不可能なことでない。

 

 と、うだうだ考えていたらよくわからなくなった。

 私は友だちが多分いないと思っているし(主観的に言えば、という意味だけど)、友だちだからとかではなく、私とその人の関係がすべてでそれ以上の何が、ありますか? って感じで頭痛くなっちゃうけど、ほんと友だちって何なんですかね。「気がついたら友だちでした」ですらない透明な関係だといいのになと思う。