内省的な怒り

 自分がどういう人間なのか、わからない。人の数だけ「私」があり、それはそれで良くて、じゃあどうして「どういう人間かわからない」という書き始めで文章を書いているのかというと、自分が温厚な人間なのかよくわからないからだった。「温厚」だけでなく「  」にはあらゆる言葉が当てはまり、自分ではわからない分、他者から「治野さんって「  」だよねー」と言われるとその内容がどうであれ嬉しくなってしまう。へえ、あなたには私がそう見えているのか、と。

 

 話は変わるのだけど、私は「内省を伴わない怒り」というものをめちゃめちゃ嫌悪している。もう、それは私の体内がカッカッと燃え上がるくらいに。吐き気がするくらいに忌避している。実際、その内容がどれほど理不尽であっても、怒り(内省を伴わない怒り全般に当てはまるわけではないが、内容として的外れなパターンが多い)をくらうとしばらく放心状態になるし、生理現象としても明らかに調子が悪くなる(心臓は早鐘を打ち、喉が渇く)。だから本当に嫌いなのだ。泣きたくなるくらい、嫌い。

 「内省を伴わない怒り」とは、一言でいえば「自分が怒ったときに他者はそれをどう受け取るか、自分はどう見られるか」ということを客観視していない怒りのことだ。

 怒りってのはもっと非理性的なものでコントロールできるものじゃなくて、だから「内省」なんてどだい無理な話だ、何馬鹿な事言っているんだ、と言われるかもしれない。逆にこっちが言いたいさ、どっちが馬鹿なことを言っているんだ。

 私は何も「怒るな」と言っているんじゃない。自分が怒ったとき、その瞬間にこそ冷静さを失うことはあれど、その前に、あるいはその後に、自分の怒りに対して冷静に眼差しを注ぐことをしてみたらいかがか、と言っている。あなたの怒りを否定はしない。ただ、同じ怒りでも出力方法を考えてみたら? と言っている。

 何故って? 「内省を伴わない怒り」は破壊行為だから。全然建設的じゃない、創造的じゃない、徒労で、無駄で、恐ろしくエネルギーを消耗する行為で、だから私は大っ嫌いなのだ。そういうことに気づけない人を心底軽蔑するほどに、嫌い。

 

 これは多分「私怨」なのだ。どうしたって、それがどれほど的外れで馬鹿げた理がない怒りだとわかっていても、怒りをぶつけられたらこちらが無条件に消耗する(多分怒る側も疲れるのでしょうけれど)。そんな理不尽なことってありますか。

 

 ということで、とっても疲れたのでこれにて解散。私は気が済みました(もちろん明日の私はこの文章を見て色々反省するのでしょう)。

 めらめらと温度の高い青い炎のように怒りましょう。赤くて武骨な炎は、美の観点からいってもあまり美しくないように、私は思います。