コロナ日記 vol.9

 平熱。喉の痛みは多少。やっぱり普段の風邪とは異なる喉の痛みである。痛みがしつこい。

 

手書きの追憶

 しんにょうの書き方が最近になって変わった。以前より少しだけ凛々しくなった。剣道部のようなしんにょうである。

 文字を書くのは当然私だから、私が変えた、ということもできる。しかし、書き方を変えた、ではなく、書き方が変わった、と表現する方がしっくりくる。筆跡は日々変化していく。意図的に。あるいは無意識的に。

 関連して、今日気づいたのだが、どうやら「褒」という漢字を今日の今日まで間違って書いていたらしい。しばらく前から確かに筆順が怪しいことには気づいていて、ただ、手書きの文字は自分しか読むことはないし、自分が読んで理解できるのだから、となあなあにしたままここまでやってきて、そんなことでは駄目だとGoogleで書き順を調べたらやっぱり間違っていた。だそうです。

 文字を書くのは少なくとも嫌なことではない。デジタルなデバイスで書くよりどうしても遅くなってしまうし疲れる行為でもあるが、それでも嫌いではない。

 なので私は読んだ小説の中で気に入った一文があると嬉々とした様子でノートを開き白紙のページに書き写す、なんてこともしている。いつから始めたことかわからない。日付は書かないルールだから。EDITというシリーズの赤いノート。

 外出できないので部屋の掃除をすることにした。整理する中で使いかけのノートがごろごろ出てくる。そのうちの一つ、まったく使っていないトラベラーズノートを徐に開くと、赤いノートにつけていたはずの言葉が少しだけ書き記されていたのであった。私は読んだ本の中身はきれいさっぱり忘れるし、本を買ったということも時に忘れてしまうけれど、本を読んだということは忘れない。だから、ふむふむ、覚えている覚えてるぞと、懐かしい気持ちになる。どうしてその文をチョイスしたのはかわからないけれど。

 赤ノートに移植するものをいくつか見繕い、書き写し、トラベラーズノートは再び机の引き出しの奥にしまい込んだ。かのノートを使いこなせる私でありたいのだけど、今の自分には少し早いみたい。

 文をメモしていた本を調べてみると、2019年に読んでいたことがわかった。なんだ、割と最近のことじゃないか。懐かしむほど昔でもないな。でも、立派に昔だよねえ、そのことはあんまり考えたくないけどさ。

 赤ノートも当時続けられるか不安だった。私はとても飽き性だからだ。続けられなかったらどうしようと思っていた。けれど今日まで続けることができている。好きな文章を律儀に書写することの意味や効用なんて知ったこっちゃないけれど(私はその行為を楽しんでいるので)使うペンの好みだったり、しんにょうの書き方が変わっていたり、そういうことを追えるのは案外面白いのかもしれない。それに、これは結構大切なことだけど、昔より今の私の筆跡の方が好きなんだよね、大事なことなんだけど。