echo

さいころの記憶がまるでない。記憶は写真のような静止画でその数も少ない。ブランコ、キックボード、あとは、何だろう。無いな。自分がどういう子どもだったのかも覚えていないが、家族に言わせると、幼稚園時代に一度ブチ切れたことがあったらしい。

通っていた幼稚園はマーチング用の楽器をいくつか所有していて、秋になると地域のお祭りで演奏するのが慣例になっていた。

私はピアノを弾けない子どもだった(そして今も楽器は演奏できない)。が、いわゆるマーチングキーボードの担当になってしまい(その記憶はある)鍵盤を弾かなければならなくなった。他の子はピアノ教室に通っており、ピアノ未経験者は私ぐらいだったらしい。その一枠に誰を入れるかとなったときに、多分色々なことをそつなくこなせる私があてがわれたのだろうと思うけれど、そんなことは知らない幼き日の私は、当然ピアノを習っている子たちより技術は劣るし、あまり上手にできなかったのだろう、ひどくご立腹だったらしい。で、ある日練習中にブチ切れてキーボードを放ると逃げた。ということを家族は担任の先生から、私は家族から聞くことになる。

「普段怒ることがないから驚きました~」と担任の先生は心配したらしい。悪いことしましたね、とも。当の本人はそのころから寝れば忘れるタイプだったようで感情も長くは続かない性質だっただろうから特に意に介していなかったようだ。翌日にはけろっとしていたらしい。

へええ。

自分のことながら、誰か他人の子ども時代の話を聞いているようで、それはやっぱり私の話だった。普段は怒らないけれど、怒るときは火山の噴火の如く激しく突発的なところとかは今も健在だ(良くないことだと自覚しているのでそれがあまりに苛烈で誰かを傷付けそうならアンガーマネジメント講習でも受けようかとも思っているが、そもそも怒ることがない)。

 

思い出というのは、誰かがいないと思い出にならないのよね。そんなことを考えていた。いや、一人でも思い出を作ることはできるけれど、そう、自己を認識する為には他者が必要なんだわ、と思った。スピッツの『君が思い出になる前に』を思い出す(完全にタイトルからの連想である)。私のことを覚えている人がいなければ、それは死んでいることと同義、かもしれない。そうかしら。そうは思わないけど。少なくとも同義ではないだろう。

私は生きていて、私のことを仮に誰も知らなくても生きていて、ただ、誰の記憶にも残らないというだけのことである。