適切にチョコを食べる

 『適切な世界の適切ならざる私』は文月悠光の詩集で、私はこの言葉がとても好きである。口に出して言いたい言葉だ。適切な世界の、適切ならざる私。

 適切とは何か。適切というものはあるのか。

 わからない。それがなんであれ、適切かどうかは恣意的なものだし可変的だろうし、要は「(私含めた)誰かが勝手に決めたもの」という程度のものだと思い、私は今日、適切に板チョコの一欠片を食べて満足している。昨日買った板チョコ(いちごのペースト入り)は買った直後は気温のせいかでろでろに溶けかかっており、とても食べれたものではなかったから冷蔵庫で冷やして翌日食べようと思っていたのだ。私はもう子どもじゃない。板チョコ一枚をいっぺんに食べる暴挙には出ない。適切に食べるチョコは禁欲的な味がした。節制と倹約。労働の後のチョコは体に沁みる。

 先ほどの説をひっくり返すようだけど、私にとって適切というのは結局自己満足。それは自分との約束事。私は私が引いた(と思っている)線を「理想」だと思い、その上を歩こうとしているだけ。私は多くを望まない。ただ、他人から「これを望めばいいのよ」と押し付けられたら、それは業腹である。