文体

文体。筆者の個性的特色がみられる、文章のスタイル。

本を(正確には小説を)読んでいると、実に様々な文体に遭遇する。本の内容ではなく、文体を気に入るか気に入らないかで先に進むかどうか決まることだってある。今回は無理でも数か月後に読めるようになることもある。文体は料理でいう味付けや盛り付けのようなものかもしれない。

私の文体はどこからだろう。そんなことを考えていた。

そのあたりを歩いている人よりは小説を読んできた自負があり(小説を読んできたから偉いなんてことは絶対にないのだが)読んできた小説の文体から影響を多分に受けてきたことは確かだが、文体より価値観の醸成の方がより強そうだ。それは、自分の文体に近しい作家をすぐに思い浮かべることはできないが、価値観を作り上げていく過程で影響を受けた作家は思い浮かべることができるから。

あなたの風邪はどこから? ならぬ、私の文体はどこから。

心当たりが一つ。それは日記。

昔から紙のノートに日記めいたものをつけてきた。私の文体の源流はおそらくそこにある。ポイントは手書きであること。

手書きとは有限性を持つ(また登場したな、有限性)。具体的に言うと、文の長さと語彙が限定される。

手を動かして書くという行為は、端的に言って怠い。自明のことだが。キーボードによるタイピング、あるいはスマホのフリック操作の方がずっと楽。私の場合、長い文章を手で書くと疲れるので、できるだけ短い言葉で最低限の表現で書きたい。どうでもいいことも、的確に書いて済ませたい。となると、無駄な言葉が減る。これはほぼ間違いないことだと思う。日記は誰かに見せるものでもなく自分がわかっていればいいので、表現も簡素でいい。

むしろデジタル機器の方が入力が楽である為、多弁でありすぎるということかもしれない。キーボードで思うままに(楽器を奏でるように)言葉を迸らせるドライブ感、爽快感は好きだし、勢いがついた拍子に生まれる表現に自分自身も驚きわくわくするものだから、アナログかデジタルか、入力インターフェースの個性の違いだろう。

文体の違いに戻ると、私の場合はパソコンで書く以前に手書きで日記めいたものを書く習慣があったからそれが文体に影響を与えているように思えるのだ。さらに言えば、思考整理の為に書く、書きながら考えるわけだから、文体は私の脳内自問自答スタイルに寄っていくのではないか。

日記めいたものの書き方? 箇条書き、たくさんの言葉の羅列、一トピック一文。今日はペペロンチーノを食べた。仕事で疲れた。そんな感じ。長い文章を書くのは苦手だ。

手書きの制約としてもう一つ。それは書ける文字しか書けないということ。デジタルのように変換機能を使えないということ。自ずと使える語彙は限定される。表現を拡張する為には、私自身が書けるようにならなければならない。難儀だ。最近「無辜の民」を覚えた。「古」いに「辛」いだって。「無辜」なんて日記で書くことがあるのかはわからないが。

手書きと文体の関連はこれぐらいだろうか。

私にとって自分の文体とは、私が読みたい文章の文体である。当たり前のように思えるが、これは当たり前のことなのか少し自信がない。私の文体の出発地点が日記めいたものであったから、イコール私が読みやすい(読んでいて心地よい)文体であるだけで、他の人の文体が同じ出発地点であるとは限らないと思うからだ。

どうだろう。他の人の、あなたの、文体はどこから? である。

と、ここまでの文章のおおよそを、私は手を動かして書いた。ラミーサファリ(インクはブルーブラック、ペン先はおそらく細字)を使って。万年筆は楽しい。字数を把握する為にそこら辺にあった原稿用紙に書いたのだが、マス目一つひとつに文字を埋めていく作業はとても楽しかった。そもそも、私という人間は文字を書くのが好きなのだ。私の文体を遡れば、手書きの楽しさにあるのではないか、というところまで書いて手が疲れた。肩甲骨も強張っている。小説も元はと言えば、誰かの手先から生まれていると考えると感慨深い。

ああ、本当に疲れた。これにて終了。