生活の足音

石畳の道を私は一人歩く。空を覆う八重桜は見ごろを迎え、私のスニーカーからは春の音がした。

どこまでも歩けるように。そんな願いを込めて買った私のスニーカーが花の亡骸を踏む。

歩きながら、先日観た映画のことを考えていた。往々にして映画の中の生活音というのは強調されがちで、それはもう不自然なくらいに、鳴る。足音も同様に。一つ一つの音が甘美なものとして耳から体に染み込んでいき、ある種の陶酔感をもたらす。そして私は錯覚する。あれ? 生きていくことってこんなに美しいのだっけ。

わからなかった。

私の足音は映画のようにはっきりとした輪郭を持たない。それはたちまち霧散し溶けていってしまうもの。生活は映画じゃない。しかし人生はフィクションである。そして私はまだ役者になりきれていない。

と、目を逸らしたその先に鮮やかな黄色が飛び込んできた。青々とした緑の中に咲く一輪のたんぽぽ。

「私、いつまで絶望すればいいのかしら」

不意にたんぽぽが運んできた空虚に一瞬息が止まり、動揺した。絶望? 何言ってるの私。

馬鹿言ってんじゃないよ、という言葉が背中を押し、ハッと我にかえる。今日の目的地を思い出す。

静寂は虚を連れてくる。だから足音は大きいほうがいいと思う。早く役者になって、早く楽になりたい。