年齢

 手塚国光が中学3年生であることを、私は今も心の中で受け入れられていないのではないかという気がしてきた。跡部景吾然り。受け入れられないという明白な拒否感というよりは、興味がない、よくわからない、考えられないということだろう。

 手塚国光(と跡部景吾)は、中学3年生。この文は、主語と述語の間が断絶している。

 

 年齢と精神のギャップ。私自身も実のところよくわかっていないし、正直どうでもいいと思っている。私は自分のことが幼い、子どもっぽいと思っていて、年相応のそれではないなと思う。立場が役割が人間を変えるのだとすれば、私も然るべき状況に置かれたら変わらざるを得ないのかもしれないが、今のところ何も無い。精神的には小学5年生ぐらいのままだ。自慢できることではない。

 恩田陸黒と茶の幻想』を読んだのは中学生かあるいは高校生か。多くの作家の中でいちばん読んだことのある恩田陸作品の中でも、上位の回数読んだことのある作品で、その理由としては、単純にページ数が多くボリューミーであるということ、に尽きる。さらさらと流れる小川のように文字を体の中に通し、それだけ。劇的な感情が起こることは、もう、無い。

 この話は30代後半に差し掛かった男女4人が、おそらく屋久島であろう、屋久島観光(つまりは登山)をするという話。それぞれ家庭を持ったり持たなかったり、気兼ねない間柄における気兼ねない会話は読んでて楽しいし、羨ましい。

 本の感想はさておき、私はこの話を10代から読んできた。主人公たちの年齢にまるでぴんとこなくて、ふーんそういうものかと思っていたティーンエイジャーから10年と少しの歳月を経て、私は確実に着実に彼ら彼女らの年齢に近づいている。久々に読み始めてその感覚に気づいた時、少しだけ、ゾッとした。彼ら彼女らの苦悩みたいなものも、あの時よりかは想像できるようになっている。その変化を面白いと感じる。私の精神はあの時から変化してないと思いながらも、少しずつ変わっているところがあるのだろうなという新鮮な気持ちが湧いてくるからだろうか。

 年齢は権威なのだろうなと思う。「大人」って大したことはない。私は私しか営業していないからすべての「大人」が結局ハリボテ営業なのか確認しようがないけれど、子どもの頃の私が思っているより大したことはなく、しかし思っている以上の何かがあるだろう。人間を正確に見積もることなど不可能だ。でも、手塚国光手塚国光で、跡部景吾跡部景吾じゃん? 敷かれたレールを走る強烈な個性を持つ彼らにとっての年齢とは。架空と現実の人間は、輪郭の濃さと可能性の部分で違うのかなと今のところは思っている。

 私は自分の年齢を意識することが割と苦痛なのかもしれない。何故かというと、老いることを意識させられるのがつらいからではなく、年々、年齢と精神のギャップの広がりを感じるから。私が思う「〇〇歳らしさ」と、自分の精神年齢の乖離が大きくなっていくことが苦しい。

 年齢らしさの呪いから逃れる為には何ができるのか。手塚国光が14歳だか15歳だか私には一切関係なくて、そういう風に生きるってことだろうか。つまり、社会的な年齢と、その人らしい年齢というのは一致しないという風に割り切って両者をうまく乗りこなすということ。