生きて帰るまでが遠足

 海、際、海ときたので、次は山だな、綺麗な川も見たいと、山の方へ行くことにした。

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 毎週のように出かけててお前はなんなんだと思われそうだけれど、仕方あるまい、青春18きっぷを買ってしまったのだから。日帰りで消化しようとすると5週連続で出かけるとかそういうスケジューリングになる。

 

  お出かけが何であれ、出かけるときの私なりのルールというものがある。それは「生きて帰る」というものだ。具体的には以下の三箇条。

  1. 食糧と水分は十分に確保する
  2. 自分の体調と気分を注視する
  3. 現地の前日及び当日の天気に気をつける

 ふらふらと気儘に出かけ、多くの場合その行き先は伝えないという振る舞いをしている以上、一応自分の中で決めていることである。ゲームにおいてルール設定は大事だ。

 

 とはいえ、その日は本当に歩くつもりはなかったのだ、少なくともハードに歩くつもりはなかった。が、こういうのを見つけたらもう駄目だった。

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 2.6kmか…、えー、予定にはなかったけど歩いちゃおうかな(わくわく)。ただ不安もある。そこで道がある程度整備されていて起伏が大きくないこと、もし駄目そうならおとなしく引き返すことを条件に、しばらく歩いてみることにした。ルートですらわかっていないのだ。もしかしたらネットで調べないとダメかもしれない。

 ということで私は歩き始める。私のお出かけは大体こんなもので、アドリブばかりである。もちろんハイキングの場合は低山であってもルートと時間配分はきちんと考えて臨むけれど、まあ、山を登るわけではないし、ハイキングって書いてないし…(ごたごた言い訳し始める)。

 そこからの私は「獣モード」である。あらゆる感覚をフル稼働させ危険を察知しようとする。昨日のこのあたりの天気はどうだったっけ。雨は降ってなかった? 落石は注意すること。水が出てぬかるんでいるところがある。湿った落ち葉で足を滑らせないこと。

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 眼下には多摩川が見える。

 歩くときのひとつのバロメーターがある。それは、躓いたり足を滑らせたら「やばいかもな…」ということ。

 平常時から躓くことはあって、それは考え事をしていて意識がぼんやりとしているときであることが多い。軽く足を挫く程度ならいいけれど(歩ける程度の捻挫であれば)人ひとりいない遊歩道で足滑らせて後頭部打ってお陀仏みたいなのもありえるといえばありえる。今のところ生きていてそういう転び方して病院に運ばれたとかはないけど、ありえる。それは、幼いころからバナナの皮踏んでスッテーンと転ぶ人々の絵を見すぎたせいかもしれない。あるいはサスペンスドラマの見すぎか。

 とにかく足元がおぼつかないときは、よほどのことがない限りは意識が散漫になっているか、体力が少なくなっている証拠だと思うので「ちょっと気を引き締めないといかんぜよ」と己を叱咤することにしている。

 

 しばらく歩くとアスファルトで舗装された道になり人家も見えてきた。このまま町に入り駅へ行けるらしい。分岐路のたびに「奥多摩駅まで何キロ」の看板が登場してくれたので迷うことは一切なかった。どの分岐にも看板がある至れり尽くせり状態だったので、途中からはこの看板に身を委ねればいいやと幾分気が楽になった。これなら引き返す必要はなさそうだ。

 

 歩きながら考え事をしていた。ずばり、死ぬということが一回限りのチケットであるならば、できることなら自分が死にたいときに使いたいなということを。

 ちょっともう生きられませんというときに(例えば病気)チケットを使うならそれはもう受け入れるしかないだろう。けれど、死ぬ気はなくて今も奥多摩駅に向かっていて、帰りがけには買い物もしたくて、みたいなそういうタイミングで死ぬのは嫌だなと思った。それは平生から生きたいとか生きるの無理だなとか考えていることと関係があるのだろうか。多分、今歩いているこの瞬間が楽しいのだろう。私がチケットを使うのはとりあえず今このときではない。

 ということで、引き続き転ばないように気をつける。でも、考え事を続けるけど、バナナの皮的転び方による死なら通勤途中の駅の階段とかでもありえるわけで、そう考えるといつ死んでもおかしくないよなという、何度も考えたことをまたもや考えてしまうのだった。

 

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 そんなことをしていたら奥多摩駅に着いた。日帰り温泉の看板が出ている。建物の窓の奥に「どうぶつの森」のリゾートな家具シリーズみたいな椅子が置いてあるのが見えた。室内に日が差し込んでいた。「泊まりてえー」という衝動をぐっと堪えて先に進む。ホテルとか旅館とか宿泊施設ってなんであんなにいいのだろう。

 奥多摩湖奥多摩駅からさらに上流へ車で上らないといけない。そもそも奥多摩に行くつもりはなかったのだからそれでいいが、ここまで来たなら行ってみたい気もする。次の機会に。奥多摩おくたまと舌の上で転がしながら、そういえば休日にオクタマ湖まで行ったシンジュク・ディビジョンの行動力つよいな、と思った(ヒプノシスマイク -A.R.B- (Division All Stars)『Hang out!』より)。三十半ばで夜勤上がりに素面でオクタマ湖に向かう神宮寺寂雷は超人だし、それに付き合う一二三も独歩もおなじようなものである。

 売店でチョコ味のソフトクリームを買って食べて電車に乗って御嶽駅へ。御岳渓谷を歩くのだ。

 

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 川を見ながら唐揚げ弁当を食べる。唐揚げ大好き。タルタルソース付と書かれていて、えー、タルタルソース要らなくなーい、と買うときは思ったけど、気が変わって容赦なく唐揚げにソースをかける。タルタルソースも好き。風が絶え間なく吹いていて、食べることに注力していたら唐揚げの味をおぼえていなかった。多分おいしかった。

 川ではカヌーを漕いでいる人がいる。その出で立ちは、あるいは振る舞いはなんとなくスポーツ的な雰囲気が漂っていた。ストイックさのようなもの。その人は急流を下ると岸にあがって上流まで戻りまた急流ゾーンを下る。その繰り返し。練習となるとそういう反復的なものになるのだろうか、地味な往復はなんとなく水泳の飛び込み競技を彷彿とさせた。飛び込みも上と下の往復である。

 あとはただひたすら川を眺めながら歩いていたので特筆することがない。橋の欄干から川を覗いていたら風で帽子が煽られて橋の下に落としてしまい、運よく河原にいた人に拾ってもらえたことと(丁寧にお礼した)ああ、白骨化した鳥を見つけたことぐらいか。

 白骨化した鳥。頑張れば「これは流木です」と言えなくもないけど、言い張るのもおかしいかと思い直し、まあ、あれは鳥でしょう。くちばしらしき部位があったし、首の湾曲した骨らしきものがあったし、白のばさばさとした羽らしきものがあった。「いた」ではなく「あった」というところにもの悲しさがある。でも「いた」とは言えないんだよな、どうしても。

 山ではあんまり見かけない気がする白の鳥。河原でそれを見つけると私は目が離せなくなりしばらく見入っていた。肉らしきものがあると多分見れなかっただろうけれど、清廉潔白、見事な白骨だった。肉があると駄目で骨はオーケーなのは何故だろう。肉は不浄で骨は清浄なものなのだろうか。そんな気もする。骨に欲はないのだ。肉は腐ったり食べたりするもので、そこには欲がある、という感じ? 私は小学生になるかならないかぐらいで、いわゆる「骨上げ」を体験したのだけれど、自分の骨に対するイメージがそこから出発しているかどうかは微妙なところだ。

 そして水際まで進むと、とろとろと流れる川面を気が済むまで見てやがて遊歩道へ戻った。いつまでもそこにいられるとは思っていないけど、戻るときは皮が肉から引き剝がされるみたいな辛さを感じた。まったく嫌になってしまう。何が? 何をだろう。

 

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 結局これも考えていなかったことだが、御嶽駅から軍畑駅まで多摩川沿いの遊歩道を歩くことになってしまった。幸いなことにそこまでタフなコースではなかった。奥多摩駅までの道は「大多摩ウォーキングトレイル 」の白丸~奥多摩間のコースだったようで(後日調べた)そちらも初心者におすすめしやすいコースだと思う。事前調査なしでこれだけの収穫であれば上々でしょう。

 その後は青梅駅で下車して少し散策して帰路についた。最後の最後にゲーセンでバスケのゲームをして一日は終了。行って帰るだけの体力がないとお出かけはできないなあとしみじみ思う。