愛すべきものたち

今週のお題「デスクまわり」

 

 どうやら自分がマグカップ好きである、ということに気づいたのは最近のことである。といっても、家にマグカップがたくさんあるわけではない。自分で買うことはあまりない。人からもらうこともない。唯一自分で買ったマグカップは、陶芸の町に行ったときにこじんまりとしたギャラリーで買ったもので、静かに慎重に、せまい店内を、あるいてあるいて、神経を研ぎ澄ませ選んだものだった。私はこのマグカップが欲しいと思った(○○が欲しいって、魅惑的ですごく怖い表現だと思う)。板張りの床、私が一歩踏み出すたびに乾いた音が鳴っていたのを今でも覚えている。その音が私は好きだった。

 お会計をしているとオーナーから「若いのに渋いのを選びましたね」とかなんとか言われた。それを聞いて私は嬉しかった。そこら辺の軽薄そうな女の子には見えないんだ、と思ったから。なんだそれ、嫌な奴だなあ、私。そういう「軽薄そうな」女の子が私になることもできなければ、私も「軽薄そうな」女の子には決してなれなくて、そこは両者不干渉、独立国みたいな感じなのに、いちいち比較してお高くとまってんじゃないよ私、とか思ったことを覚えている。「渋い、だってさ。ふふふ」帰りの電車に乗ろうと駅まで向かう道すがら、マグカップを買ったという事実が嬉しくて、小さな紙袋を上げたり下げたりする。渋いだってさ、へへへ。

 マグカップを買わないのは単純に場所の問題であって使用の問題はない。使用の問題というのは、つまり「それだけのマグカップを買ったところで、人間には口がひとつしかないよ」という有限性の問題を指しているけれど、安心してほしい、今、私の机の上にはタンブラーと透明なグラスとマグカップ(例のやつ)がある。私の口はひとつしかないのに。タンブラーには緑茶が、グラスには昨日の飲みかけの梅酒が、マグカップにはコーヒーが、それぞれ入っていて、私はそれぞれ飲む(梅酒は流しに退陣していただくけど)。マグカップがあれば、おそらくあるだけ何かを注ぐだろう。そうして、一杯また一杯と飲んでいき、私の机の上は空のマグカップでたくさんになる(これは整理整頓、片付けが苦手な人がやるやつだ!)。

 使用の問題はクリアしているとして、しかし収納場所には限りがある。だから私は「マグカップ博物館」みたいなのを作れたらいいなあ!と夢想する。作れたらいいのだけれど。でも博物館というのは、使用ではなく展示する空間であり、私はいつもいつでもマグカップで飲み物を飲みたいから、博物館企画は却下だわねと10秒後に霧散した。展示品でお酒は飲めない。モノを使うとき、そこには場所の問題がいつも付随する。使用の問題は案外どうにかなる。人間だもの。

 私の机には本のタワーもある。うず高く積まれた本の山。買った本、借りた本、読んだ本、読んでない本、とにかく様々な本が積まれている。それらはいつもぐらぐらしている。同様に、私の机の上にはマグカップもある。タンブラーもある。グラスもある。飲み物はタワーの横に平然と置かれている。と、どういうことが発生するかというと予想の通り、本のタワーが崩れたことに連鎖してマグカップが転倒する。そして机の上が水浸しになる。さて、この文章はどこで何で書いているでしょう、同じ机の上のノートパソコンですね!

 昨日もタワーを崩した。出来たて、じゃない、崩したてほやほやである。緑茶のタンブラーが倒れた。本は無事、パソコンも無事、スマホはちょっと濡れた。ノートも濡れてインクが滲んだ。充電コードは水浸しになった。通電せずに乾かせばたぶん平気。被害としては最小限にとどまったと思う。本の中には図書館の本もあったので、それに被害が及ばなかったのが不幸中の幸いだった。安堵のため息。それだけは図書館利用者としてやってはいけないことだから。

 ということで、この文章を書きながらも私は反省している。本は積む。開き直るけど私は積む生き物なのです。だから積むなら積むで、マグカップ類の背丈を越さない、ということをルールとして定めようと思う。あるいはマグカップに被害が及ばない場所で積もう。そうして私の机の上は両者不干渉の原則により調和が保たれる。机の上にあるものどれも、私の好きなものたちばかりだ。私なりに愛着を感じている愛すべきものたち。これは少しずつ少しずつ自分で集めてきたものたちだ。どれも抱きしめちゃいたい、なんて言ったらきっと引かれてしまうと思って言わないけど(でも書いてしまったから言ってることと同じか)私は私の好きなものに囲まれて今日も何かを書いたり考えたりしている。これがいわゆる「大人になること」であれば、あの日どす黒い感情に飲まれそうだった自分に言いたい。好きなものを買ってそれを机に並べてみれば? と。それがきっとあなたを遠い場所に連れていってくれると、遠い場所にいる私は思う。