海岸線

その日は曇りか、場合によっては雨模様になることは前からわかっていた。それと関係があるかはわからないが、前日寝る間際にセットした通り朝5時半のスマホのアラームで叩き起こされた私の機嫌は決して良いとは言えなかった。何かが澱んでいた。

朝からamazarashiの『自虐家のアリー』のことを考える。

「行きたい場所なんて何処にもない」

歌詞というのはいいね。ばっちりな表現を見つけることができる。言葉の収集は馬鹿にできない。小さな子が語彙を増やしていくのと同じように、私は私の何かを形容する表現を増やしていく。そうして感情が形を持ち私はまた細かくなる。「行きたい場所なんて何処にもない」とは、出かけ先を決めあぐねている私の気分にぴったりな言葉だ。

それでも私はリュックを引っ張り出すと手早く身支度をする。出かける為の準備をするのは嫌いではない。自分にとって必要なものを選り分ける時間に思えるから。今回のささやかな旅に持っていく本を選ぶ。そろそろ図書館に行かなければならない。読む本がない。血が滞っている感覚。

行き先の候補は片手ほどあった。しかしどれも決めかねていた。東西南北、あらゆるパターンが考えられるが決定的な要素がない。仕方なく私は自問する。海か山か川か。電車に乗る感覚はロングかショートスパンか。何がしたいのか、何がしたくないのか。簡単な食事を摂りながら、水筒に茶を詰めながら、私は頭の片隅で静かに考える。そして結論としては「集中したい」とのことだったので、集中できそうな行程にする。電車の旅と言っても運行本数が少なかったり乗り換えがシビアだとそれなりに気を回さなければならないのだ。前回は割とその要素が強い旅で、確かに集中できたかというとできなかっただろう。それにこの一週間についても同様に「集中」できてなかった。ほぐす必要がある。

私にとって、からだをほぐすことと集中することは矛盾しない感じがする。気が散漫であることはリラックスしているのではなく、逆にからだのどこかが凝っていたり痛みを発していたり硬くなっているものなのだ。そういう自分は好きではない。というか心地が悪い。

 

駅ナカのコンビニで梅味の飴を買う。旅中に飴は欠かせない。柑橘や梅味が望ましい。口がさっぱりして気分転換になる。飴を舐める、という行為もどこか意識的に。「ここだ」というタイミングを狙って。格闘ゲームでカウンターの瞬間を狙うように。(大乱闘スマッシュブラザーズ格闘ゲームと言えますか?)

 

電車に乗りながら、今回の旅の成功とは何かについて考える。もはや家の玄関を出た時点で旅としての目的は達成しているのではないか(私は部屋から飛び出す必要がある)と思うが、そもそも成功だとか失敗だとか考えてるのは何なんだ、狭くてみみっちくて無様ではないか。

夢野幻太郎のキャッチコピー(?)は「何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない」であるが、元を辿ればチャップリンの名言らしく、それはそれとして、夢野(まあ、チャップリンか)良いこと言うではないかとしみじみ思う。この旅は意味を求めるものではない。成功か失敗か決めるものでもない。もはや願望でさえ溶けてしまったその先に、海でも有ればよかろうぞ、と、少し元気になる。

失敗しない、失敗しない、失敗しない。誰に言われたわけでもない呪いでからだはひたひたになっていて、その事実に私はうんざりする。そうは言っても失敗しない生き方が最適解だと思って生きてたんでしょう?

 

本(土井善晴中島岳志『料理と利他』)を読む。どんな本にせよ、ああ、もう読めないわ、これ以上は無理、という地点がある。食事の時の「これ以上食べると食事がおいしく感じられなくなる」という地点と同じように、本を読むときにも引き際というのが存在するように思う。そういうときは潔く引く。撤退。中断。そして別の本を読んだり違うことをする。

 

3時間程度の電車旅を経て海へ。海岸線を歩く。砂浜にあしあとを残す。歩いた証はすぐに砂浜に溶けるなり寄せる波によってかき消されてしまった。大量の水があるところに赴くと米津玄師の『Lemon』を聴きたくなる。しばらく埠頭のようなところのへりに腰掛け音に浸る。足元には消波ブロックが積み並べられ、ちゃぽちゃぽと波が戯れている。

ラーメンが食べたかったのでラーメンを食べて、寺社へお参りし、次の駅に向かい、下車してまた歩く。ここまでなんとかもっていた空模様も限界のようで、海岸線を歩いているときにぽつりぽつりと雨が降ってきた。風も吹いているし折りたたみ傘だしと、しばらく傘を差さないで頑張る。小雨に打たれる。

f:id:dorian91:20220326144715j:image

それにしても、一日たっぷり歩くというのはいい。何故なら空が移ろう様子を追うことができるから。

駅は斜面の上にあり、きつい坂を登らなければならなかった。どうして坂を登ることはからだにとってつらいことなのだろう。息が切れ汗が額に滲み足が引き攣り腹筋に負荷がかかっているのモニタリングしながら、頭の片隅でそんなことを考えている。どうして人間というのは疲れるのだろう。

狙っていた電車にも間に合い、車内でほっと一息ついたところで眠くなってきた。概ねやりたいこともできたし何より疲れてしまったのでここで引き上げることにする。ぼんやりと霞がかかったように重たい脳みそを使って、今、私はこの文章を書いている。気が進まなかったが出かけることができてよかった。またこれからやっていこう。