片付け

 机の上に本のタワーを建てがちである。読みかけの本が何冊も何冊も積まれたタワーは、不注意に肘で突けば崩れ落ち、私は不承不承散乱した本を積み直す。机の上を片付けるときは、タワーを根元からまるごろ抱え、よいしょと、移動するだけで何も変わらない。とはいえ、やっぱりきちんと片づけをしないといけないと、机の上のレイアウトを少しだけ変えた。変えるにあたってタワーも解体した。

 どれもこれも私が知っている本ばかりで(それはそう、私が買ったり借りたりした本だけがそこにある)今更おどろくことはないけれど、なんだろう、この本一冊一冊が私なのだという不思議な感慨深さのようなものにおそわれた。私が選んだということは、つまりそれは私の一部でもあるかもしれないと。本の堆積は私の思考の堆積にほかならず、本は私がある種メタモルフォーゼした物体というか、そういう感覚。あらあら、これは私なのねと思いながら、一旦ばらばらにして、結局はまた積み上げてしまったのだけれど。圧倒的に本を置くスペースが足りない。というより、本を適切に整理することに関心がない。

 本の話ついでにもう一つ。今日か昨日か、ふと気がついたことがあった。それは、私にとって本を読むという行為は、享楽を反芻する手段のひとつだということ。だから本を読むことが必ずしも好きなわけではないということ。

 享楽というと「レジャーや官能の楽しみを十二分に味わうこと」と国語辞典には書かれているが、要はその人の意味もないこだわりとか好みの偏りだと考えてもらえればいい、享楽を反芻・増幅する機構のひとつが本(というか小説)というわけだ。だから、読める本と読めない本の差が私の中ではかなりあって、それが自分の中でかなり重石になっていたということにようやく気づいた。これからはきっと今まで以上に本が読めるだろう。

 たぶん私は、モノの質感、そこ迫る細かい描写が好きだ。人間とモノの交点に魅かれるっぽい。

 もうこれは何がきっかけなのか全然わからない。幼いころからそういうもので、幼稚園に通っていたときの思い出は、パッと思い出せる限り、園内郵便ポストとキックボードとパパゼリーだ。具体的な他者よりもモノが先行しがちだ。

 そういうディティールがきちんと描かれていれば手段は問わないのだろう。私の享楽に触れていれば何でもオーケーなのである。だから「小説読み」とは標榜できない後ろめたさがあったのも、なるほど本を読むというのは私にとって手段なのかと腑に落ちた感覚があった。もちろん享楽から遠い読書もそれはそれで悪くないのだが。知識欲から純粋な面白さがスタート地点の読書も当然ある。

 私はいつでも本を読むことを通して「グッとくる瞬間」を探している。本の堆積は(必ずしもそれだけとは限らないけれど)「グッとくる瞬間」のコレクションなのだと思うと、妙にこそばゆい気持ちになる。まあ、他人が私の部屋にある本を眺めたところでそこに通底する性質までは読み取れないと思うけど、それでも。