停電

 『ボーン・クロックス』は好きな小説だったので買ってしまったわけだが、あの話はホリー・サイクスという一人の女性の人生を要所要所で描いた物語だった。最終章はホリーの晩年パートであり、世界がなんやかんやで激動の時代を経て、つかの間の凪のような時間が緩やかに流れている。

 SFというのは想像力の極地であり、SF的思考は生きる上でも結構大事なものではないかと私は思うけれど、『ボーン・クロックス』を読んで世界の行く末が最終的には『ボーン・クロックス』の最終章のようなものに(あるいはマーセル・セローの『極北』のようなものに)なるのかなあと思うようになった。もちろん、長い長い時の果てにああなるだろうなとは思ってたけど、それよりずっと近い時代に、もしかしたらわたしが生きている間に、あんな風になるかもしれないと。つまり、いけいけどんどん、人類は発展し続けるのです、みたいな形にはならないのでは。ピクサー映画であるような、ないような、あるいはファイナルファンタジーの世界にあるような、ないような、空飛ぶ車が頭上を飛び交うような時代は、ありえないのではないかと思っている。そんな世界ではおそらく停電はもっとカジュアルなものになる。

 世界の行く末の話はそれとして、ただ今日の日本で「一部地域が停電するかもしれないですよ」という事実を受け入れられるかというのは話が別だ。少し違うか。正確に言えば、私は別に停電を許容できるが、そもそもなんで当たり前に電気を使えてこれたのだっけ?という疑問にぶち当たる。なんで息を吸うように照明のスイッチをつけてこれたしスマホを充電できたしパソコンを動かせるし電子ケトルで湯を沸かしてインスタントコーヒーを作れるのだっけ。それって当たり前のようにやっているのだけど、本当に当たり前でいいのだっけ。私たちは11年前にそのことについて考えざるを得なかったのではなかったか。そして忘れてしまったのか。私はまた忘れるのか。

 雪が降るような寒い日だった。窓の外で雪がちらついているのを眺めながらレミオロメンの『粉雪』を音程が合っているのか合っていないのかわからない下手さで小声で口ずさんだ。他ならぬ私はどう生きたいのだろうと、いつも考えてしまう。考えるとまた一つ自分の解像度が上がるようで楽しいけれど、生きたいように生きることができているかは難しいところだ。