丘陵

 電車に揺られて何処へ。

 その日は山に出かけるつもりはなかったものの、山に行きたいという気持ちが湧いてくる。ぐっと堪えてとりあえず眼下に滔々と流れる大きな川を渡ることにする。遠くでは重機で土木作業。アームの部分が動くからか、あるいは私が歩いて移動するからか、ボディに太陽の光が反射してきらりと光る。水面のきらめきとはまた別のひかり。

 

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 川を見るのが好きだ。というか嫌いな人っているのか。そりゃあいるか。いるよなあ。海を見るのが嫌って人もいるだろう。心底うんざりするという人もいることだろう。それはなんとなく、わかる。

 そこに川が流れているのか否か。出かけると川の存在を意識せざるを得ない。大半は町の近くに水がある。交通として、荷物の運搬として、生活用水として、水は欠かせないもので、町々の近くに川があるのは理解できる。出かけると川が流れている。

 川が流れていると橋が架かっているので私は橋を渡る。橋は境界としての機能も果たす。どちらにも属さない、あるいはどちらにも属す不思議な場所。川は風が通るから橋をぶった切る勢いで風が吹きつける。風と橋が交わる交点に自分を置く。だからなんだということはなく、しばらくの間風にあたりながら川を見つめる。欄干から腕を伸ばして真下の河原なんかを撮ったりする。

 

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 たま川。ひらがなにすると途端に愛らしくなる多摩川である。たま。それは猫の名前。

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 意識してなかったけれど、今回は東京の西部、丘陵地帯と台地の境界をめぐる旅となった。丘陵地帯を上から見ると人間の指のように見えるのではなかろうか。指ひとつひとつが丘で、指と指のあいだが川で削れた谷の部分、手のひらが山地である。

 

 通り過ぎる町々は、そのすべてが私の不可能性だった。そのことに私は愕然とする。

 私は私であるしかなかった。誰も私にはなれないし、私も誰かにはなれないということの不思議。私ではありえない人生がそこにはたくさんあって、すべてを知ることは叶わないのだと、自分は当たり前だが全知全能の神ではないんだよなと、やけに物悲しい気持ちに襲われて私はめそめそする。要は好奇心として色々な生活を知りたかったし体験したかったってことなのだろうけど。他人の持つものをただただ羨ましく思ってしまう。

 出かけることができて良かった。いつだってお出かけは楽しい。

 電車の中で読もうと持ってきた二冊の本は遅々として進まず、パートが終わるたびに別の本を読み、その本のパートが終わったらまた別の本の続きのパートを読むという、なんとも落ち着かない読書スタイルになってしまった。二冊の本を入れ替わり立ち替わり読む落ち着きのない乗客は、これまでそれなりに電車に乗っているけれどあまり見たことは無い。