どうでもいいに抗う

 感情が一分一秒、は言い過ぎだな、一時間単位一日単位で変化している。私にとって感情とはそういうものかもしれないし、何十年と付き合ってきたから今更致命傷は追わないにせよ、移ろいゆく喜怒哀楽の感情、いや、喜怒哀楽という風にはっきりと区分できない感情を、いかにやり過ごすかに執心している。

 

メトロめぐり

 東京には「東京メトロ24時間券」というフリーパスがあって、名前の通り600円払えば24時間は東京メトロ管内自由に乗り降りできるという代物である。この券を使って、行きたいところ、行ったことがないところに行ってきた。

 

植物園

 小石川植物園。覚えている限り、初夏、冬と訪れ、今回また冬というか初春に。春夏秋と、人気のシーズンはどうしても人が多いだろうと、訪れるのを躊躇う。人が多くて紅葉が綺麗な場所と、人が少なくてうら寂れた場所なら、今の私は後者を選びそう。でも、いつかはちゃんと春夏秋に行かねばな、と思う。

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 ベンチに座って弁当を食べた。植物園のベンチは邪魔な凹凸などなく、寝っ転がりたければ寝っ転がれる。お金を払って入る公園はシームレスなベンチがたくさんあるなあ、と思うけれど、お金を払って入るという時点で、入る人は限られるわけで、それを公共的とは呼ばないだろう。街中で、ベンチの真ん中部分に凹凸があるベンチを見ると、私は少し苛々する。様々な理由があるにせよ、ベンチの上で寝転ぶ自由をその凹凸に制限されていると思うと腹が立つのだ。ベンチの上に寝転んで空を見上げたいときもあるじゃないですか、と。

 

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 小石川植物園には温室があって、水やりの為だろうか、自動的に水のようなものが噴射される場面もあった。他にもガコンという仰々しい音が室内に響くわと思ったら、天窓が自動で開閉されていたり。温室は室外にいるより太陽の光の存在を強く感じる。それが温室の役割でしょうと言われればそうなのだろうか。温室が欲しいなあとか思ってしまう。恩田陸『麦の海に沈む果実』では温室が登場する。とても印象的な場所だ。

 

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 アマリリス。冬でもなんでも温室で大きく美しい花を咲かせる。アマリリスってポケモンいなかったっけ。・・・。いないらしい。

 

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 一向に植物の名前を覚えられないが、植物園なり公園なりを楽しむ為の工夫として、お気に入りのものを見つける、ってのはあると思う。今回のお気に入りはこれかなあ。寸胴で幹が太めのごっつりとした植物が、その日の気分としては気に入ったみたいだった。

 

 温室をあとにすると、散策を続ける。私は毎回左回りで回るけれど右回りコースも試してみたい。まだ行ったことのないルートもあるので歩いてみたいし、まだまだできることはありそうだった。園内の奥は高い木々が鬱蒼と茂る場所になっていて、土が踏まれて均された道を私は慎重に注意深く歩く。葉擦れの音、落ちた枯れ枝を踏む音、鳥の鳴き声に耳を澄ませる。別にそれは尊いことじゃないんだよなあ…と思う。自分なりのケアのやり方なだけである。

 

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 メジロ(おそらく)。ついこの前の雀といい、ぽてっとしたフォルムがなんとも可愛らしい。

 

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 梅がちらほら咲いていた。桜はたっぷりすぎて、ここ数年は梅の方が好きになっている。

 にしても、梅林にはたくさんの人がいて一様にスマホやら一眼やらを掲げていて、私ももれなくそのうちの一人なのだけれど、一体私たちはなんなんだ、と思わざるを得ない。それくらい滑稽な光景だった(重ねて言うが私もそこに含まれている)。他の人が撮るものを撮っても意味ないじゃん、と天邪鬼な私は思うし、何の為に撮っているのかという内省は怠らないでいたいなと思った。私は、記録の為、思い返す為、再発見の為。今のところは。

 

TDC

 場所を後楽園に移す。要は東京ドームである。東京ドームにはアトラクションゾーン(東京ドームシティアトラクションズ)があって、そこは入園するだけなら無料なので、たくさん歩いたことだし休憩とする。

 人々の楽しそうな歓声を煩わしいと思うか、苛立たしさを感じるか、肯定的に受け止められるかはその日の気分次第で、どうやらその日の機嫌は悪くなかったようだ。私の知らないところで楽しそうにはしゃいでいる声が、私のからだを透過していきそこには何も生まれなかった。降り注ぐ日の光が暑いくらいの陽気だった。

 

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 少し前に、図らずも遊園地みたいな遊び場のゾーンに一人入り込んでしまって、別にどうもないけれど面白く感じたときがあって、一人で遊園地的なる場所に潜り込むことについて考える。別に行ってもいいのだけど、その為に(つまり一人で遊園地的な場所を味わう為に)お金をある程度払うなら、他にまだまだ行きたいところがあるしなあ…とチャレンジは見送り続けている。お互いが無関心でいられる場所、視線が交わらない、内向きである空間に身を置くことの面白さや気安さのようなものは、ある気がする。向こうのアトラクションでは、中学生くらいの男の子がレバーを思いっきり上下させて、くるくると宙を飛んでいる箱が上に下に揺れている。もう一人、同乗の連れの男の子が「やめろって」と半ギレしている。そこに私がいないことの安心感たるや。

 

公園

 メトロで行ける範囲で限界まで行くか、ということで、某路線の某駅で下車。

 住宅街を抜け公園へ。かなり広めの公園で、野球場(四面ある)やテニスコート、土のトラックだけど陸上競技場もあって、まったく、潤沢なラインナップである。ジョギングコースが園内を周回できるよう整備されていて、私は黙々と歩く。ここまでくると考えることもないし、撮ることもない。近くにスタバでもあるのだろうか、おなじみのドリンクカップを持った男女が歩いていた。銀杏並木沿いのベンチには人々が座って思い思いの時間を過ごしている。

 乗り回していて言うのもおかしいかもしれないけれど、電車に乗るのが好きとはいえ、メトロはその中ではいまいちな方だよな、なんてことを考え始める。その1、人がある程度乗っている。その2、地下鉄ゆえ外の景色が見えない。私は車窓から見える景色を眺めているのが好きなのだろう。だからメトロはちょっと物足りない。それでもメトロならではの良さもあって、駅のホームから地上に上がるときのワクワク感というのは地下鉄でしか味わえないだろう。ということで、何の変哲もない主幹道路の道端の入り口から地下鉄のホームに潜る。

 

夕暮れ

 今度は南下。これまた都内某所。地上へ上がると、日が暮れ始めていた。公園があったので散策しがてら歩く。一駅分歩こうとしている。

 

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 パンダがいた。大きな正方形を作るように、縦横等間隔に飛ぶパンダたち。この日一番の奇怪な風景だった。黄昏時、歩きっぱなしで疲れ切った体にとっては結構こわかった。

 

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 こういう写真が結構好きだったりする。その理由について言語化はまだしていない。

 

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 早朝ではなくれっきとした夕暮れ時の写真なのだが、偶然車の往来が途切れた瞬間であった。こういう写真が好きなのよね(2回目)。

 

 夕暮れ時に歩くことは贅沢なことだと思う。夕暮れ時というよりは、AからBという明らかに異なる二つの状態に移行する間に歩くこと、夜から朝、朝から昼、昼から夜に歩くこと。

 

ディズニーランド(仮)

 場所は変わって二重橋前。和田倉門から東京駅を眺める。

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 このライティングが、記憶の中にあるディズニーランドの道と似ていてちょっとワクワクする。遊ぶだけ遊んで最後ゲートをくぐって舞浜駅に向かって歩く道の名残惜しさみたいなものが好きなのだ。なんというか、帰る道がきちんと整備されているってすごく贅沢なことだなと思う。物事をちゃんと終わらせることは難しく、同様に、ちゃんと帰ることができるのも困難なことなのである。

 

世界史

 世界史の教科書と図説を買う。「趣味:世界史」ってのもいいかなと思って。それと無印良品再生紙のノート(できるだけ分厚いやつ)も買った。そこに色々とまとめようと思っている。

 

怒ることができない

 『鬼滅の刃』は全巻読んだわけではないのだけれど、その中で好きなセリフが二つあって、ひとつは胡蝶しのぶの「こんばんは 今日は月が綺麗ですね」で、もうひとつは栗花落カナヲの「どうでもいいの 全部どうでもいいから自分で決められないの」である。

 

 明らかな軍事侵攻が行われている。ロシアとウクライナの話だ。情報は錯綜している。速報が意味を成していない。自分自身のメンタルヘルスを意識しつつ、新聞を読んだりニュースを追ったりしている。情報を吟味しゆっくりと「私はどう思う?」と問いかけ考える。

 今回の戦争は決して他人事ではない。ロシアとウクライナの図は、そのまま中国と台湾の問題として考えることができるわけだから。日本の安全保障の問題にも関わる。重ねて言うが、他人事ではない。でも。私は心のどこかで思っている。結局は他人事ではないかと。

 

 なんだろうな。この状況に関して、どうしても怒ることができない。「これ言っちゃあ人間としておしまいよ」と自己ツッコミしているけど、怒ってない。私、相当冷たいのでは? と思わざるを得ない。もちろん、怒っている人悲しんでいる人意思表示をしている人に対する敬意の心はあって、でも、どうして私はそれができないのだろうと思ってしまう。あ、凹みはする。そりゃあ、凹む。

 自分の振る舞いに関して赦されようとも思わない。では何故うだうだ書くのかというと「私はどうして怒ることができないのだろう」ということを知りたいからだ。

 ベースとして、「滅ぶならこんな世界滅べばいい」と私は思っている。「石油はいつかは枯渇します」みたいなのを小学校か中学校の社会科目で習ってから、「世界終わっているな」とずっと思ってきたわけで、人生の大半は厭世的に過ごしていると言ってもいいかもしれない。だいぶ拗らせている(とはいえ、多分私は入門程度のレベルだろうが…)。そのうえで「どうせ命があるならば、世界の滅亡を少しでも遅らせるだけの努力はしてもいい」と思っている。性悪説ならぬ、世界・絶望・説。

 最悪な世界なら、ウクライナへの軍事侵攻くらいありうる話だ。あってほしくはないが、それでも可能性としては全然ある話だ。そして、現実として、実際にロシアの戦車は国境を越え、ウクライナの地を蹂躙している。

 私は人命が失われることを決して肯定しない。が、それは戦争でも、入管問題でも、交通事故でも、新型コロナウイルスでも同様で、戦争だけが特別ではない。怒るなら、人命が理不尽にも失われ続けている構図そのものに怒らなければ筋が通らない。そして私は怒れないのだ。なんでだろうね。運命論を信じている? そんな馬鹿な事あるわけない。それが自然の摂理なのだと思ってしまうからだろうか。人が争うのは、人間が動物である以上避けられないからとかなんとか。自分の身に災厄が降りかかったとしても、多分怒らないんだよな私。だから、栗花落カナヲちゃんの「どうでもいいの」という言葉が好きだ。どうでもいいのかもしれない。私は自分のことも、自分以外のことも大切にできない。どうでもいいから、怒れない、のか。

 とはいえ、この姿勢は外聞的によろしくないことはわかる。だから私は「振り」として、ロシアのウクライナへの軍事侵攻に関心を持とうとしている。意識しないとあっという間に日常の思考の流れにのって運ばれていってしまうから、かなり意識的に関心を持とうとしている。形から入って中身が伴うこともあるかもしれないから。遠ざかる、他人事だから関係ないからと遠ざけようとする(本当は他人事ではないのだが)心を、どうにか今この場に繋ぎとめている。

 それが、今私にできることのひとつめだ、と思っている。

 

 「怒れない」から出発して、私はなんとかこの場に立つ。立ちたいと思っている。それは外聞的な問題もあるし、暇つぶしとも言えるし、世界に参加する為でもある。

 これはかなり意識的にやっていることなので、エネルギー不足で余裕がなくなると多分できなくなるだろう。その為にも、日頃から穏やかにしっかりと休んで健康的に過ごそう。

 

2022.2.28 追記

今回の教訓として楽観バイアスの存在を改めて意識しないといけないなとも思った。未来の最悪な想像はするけど(世界の滅亡)、最悪の一歩手前にある現実的な想像はあんまりしてないかもしれないと思って。楽観バイアスに陥る悲観主義者は悲観主義者と言えるのか。言えない気もしてきた。