基礎体温・体重・自然

 思うところがあって、昨年の11月ぐらいから基礎体温を測り、体重計に乗っている。飽き性で続かないところがある私にしては珍しく、2月になっても続けている。習慣になったといえばその通りだが、スムーズに習慣にできるものとできないものがあるわけで(続けられなかったもの達の残骸が、私の後ろには打ち捨てられており、それらは点でしかなかった)、基礎体温と体重計については、動機もある分続けやすかったのかもしれない。なにより、毎日の点が、1週間、半月、1か月とたくさんの点の集まりになり、それは線であり、波を観測できるぐらいまでに線は長くなったこと。それを「面白いな」と思えたことが大きかった。

 話は変わるが、『武器としてのヒップホップ』を先日まで読んでいた。この本の著者はヒップホップミュージシャンのダースレイダーであり、氏はヒップホップを通して得た見地、哲学を、熱量と一緒にそれはまあたっぷりと綴っているわけだけが、その中で世界は混沌であると、水のように流れていくものなのだと、そういうことが書かれていた。

 なるほど、と思う。まあ、そうだなと思う。

 今、私の横には、本が何冊も積まれてできたタワーがあって(不安定でぐらぐらしている)その真ん中ぐらいに『平家物語』もあって、その『平家物語』の有名すぎる出だしの部分にも書かれている。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり…。

 『武器としてのヒップホップ』では、氏の半生とヒップホップが交錯していく様も書かれている。病についても書かれている。そうか。病か。

 基礎体温と体重の話に戻ろう。

 基礎体温も体重もその流れを追っていくと、ひとつとして同じ瞬間がないことがよくわかる。女のからだを持つ場合、基礎体温は一定の周期があって、人によりけりだろうけれど、多分どんな人であっても、これからずっとずっと同じ周期ですってのは無いと思う。人は機械ではないから。体重や体脂肪も同じで、機械のバグか?と思うくらい安定しない。食べすぎた、運動した、今日は筋トレしていない、野菜を多めにとった…体重や筋肉、体脂肪の増減に関するファクターはあまりに多すぎるし、すべてが解明されているわけでもない。個体差があり、からだの変化は即時数値として反映されることもないのかもしれないと、私は体重を測り始めてから発見した。だから、一つ一つの数値に一喜一憂することもないし(まあそれは初めからなかったけど)変化は気づいた瞬間立ち現れるものなのだ、という現在の理解だ。

 新型コロナウイルスのオミクロン株に罹った人の体験記を動画として見ていると、「軽傷」と一笑するには重すぎた。人のからだは本当にわけがわからないなと、途方に暮れるというか、荒野の真ん中に一人何も持たず放り出されたような、心もとなさを感じる。が、生きるということは最初からそういうことだっただろう? むしろ勘違いして生きてたのが今までの大部分でしょう? という気持ちにもなる。わからなさと、途方もない感覚をそのままに混沌を生き抜くってのが、多分人として強いということなのだろうさ。

 身近過ぎる自然を相手に今日も私は生きる。今日は余力があれば筋トレをするし、もっと余力があればジョギングしたいものだ。