関係性礼賛主義の奴隷

 誰かと誰かの関係性に「萌える」だなんて馬鹿げてる、と吐き捨てたくなる、そんな露悪的な夜。機嫌が悪いと言えば悪く、悪い理由は自分の中でもわかっている。上がれば下がる。下がれば上がる。気分なんてそんなものなのかもしれない。

 関係性なんてうんざりだ、と思う。誰々と誰々のカップリングはいつだって最高だとか、気安い絡みは見てて微笑ましいとか、本当にうんざり。他人に纏わるありとあらゆる要素を機械にかけて分析したくないんだ。何を選んだ、どんな言葉を発した、表情、声色、眼差し、いかなるシグナルも何かの兆しなのだと、メッセージなのだと、そんなことを考えるのに疲れている。だから多分海を見たくなるし、山に行きたくなるし、写真を撮るし、食べ物を食べる。なぜならそれらに対する私の解釈は一見したところ透明になるから。本当にそんなことないのだけど、まあ、対人より強くない。

 と、まあ、ここまで喚いたところで、明日目覚めればまた関係性礼賛主義に隷属するんでしょ? それも含めてうんざりという、かなり荒んだ精神であるが、おそらく眠れば治まるでしょう。

 私が知ることのない誰かと誰かの関係性、そこにある交歓や悲哀を私が断ずることなんてできやしないし理解もできない。そこに色めきだって、あれがいい、これがいいということの浅はかさ、みたいなものに「キー‼」となる。それが適用されるのは(つまり「キー‼」となるのは)あくまで私の中の話であり、それこそ私以外の誰かが関係性礼賛主義に染まっていようがいまいが、そんなの知ったことではないのだが。