コダックについて

 コダックとはポケモンコダックのことである(昨日はゲンガーが登場した)。コダック、あひるポケモン、高さ0.8m、重さ19.6kg、いつもずつうに悩んでいるポケモン*1。今日、私はコダックを作った。クレイアート(大人の粘土遊び)を趣味にしようとしている。

 コダックを作った、と言っても、今日はそれぞれのパーツを作って、一晩置いて乾燥させてからくっつけるつもりだ。コダックの頭、くちばし、足ひれ、腕、胴体、そして、しっぽ。目と頭の毛は全体をくっつけるときに微調整する予定。私の机に無造作に散らばった分節化コダック

 何故ポケモンなのかという説明はそこそこ長くなり面倒なので割愛するけども、殊にポケモンに限って言えば、クレイアートは分節化の作業だった。つまり、パーツで考えるということ。プラモデルを趣味にする人はこういう考えはさほど珍しくない(むしろ当たり前?)ことだろうか、あるいはジグソーパズルも同様かもしれない、粘土で表現可能な範囲でパーツを考えること。あとは色が異なれば当然粘土も変えなければならない。細かく、細かく考えなければならない。

 正直、コダックの足ひれなんて今まで考えたことがなかった。コダックにはキュートなしっぽがあるのだが、しっぽがあることを今まで意識したことなんてなかった。だけれど、作るためには観察しなければならず、その結果私は自分の中のコダック像を再構築しなければならない。それは面倒だけれど、新鮮な営みだと思う。

 人は自分がやりたいことをやる生き物なんだなと思う。自分がやりたいことで変わっていくのは許容できるのに、自分が想定していないところで変化を余儀なくされるのは、面白い反面ストレスだ。ストレスだと思っている自分に、ちょっと驚いている。私はもうちょい「リベラル」だと思ってた。でも、コダック像を立ち上げ直すだけで正直面倒だ。しっぽは可愛いけど、別にコダックのしっぽなんて知ったこっちゃなかった。しかし、当然のように、粘土で再現するにはコダックをよく見なければならない。

 私は今日、コダックについて考えていた。コダックを通じて、変わること、立ち上げ直すことについても考えていた。自分にとって慣れないことは頭の奥底がひりつく。多少の負荷を、ポジティブな気持ち(うまく再現できた時の達成感や、製作途中の思いもよらぬ発見など)で柔らかく包み込めたらいいなと思っている。幸い、私にはまだまだ作りたいものがある(もちろんポケモンに限らず)。