1時間

 さて、実験的な試みをしよう。私は1時間かけて今から何かを書く。何を書くのかは全く決めていない。ただ、1時間書く。それだけだ。今、ストップウォッチを押した。始めよう。

 

 そもそも何故このようなことをしようと思い立ったのか、そこから始める。

 といっても、大した理由はない。先ほど私は『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』(早川書房)を読み終わり、いささか高揚している。良い本だったからだ。良い本だと思った。印象深い本に巡り合うと、一時的ではあるがそこに引っ張られる現象が生まれる。例えば文体だとか、例えば世界観だとか。「こうして~」は敵対する二人の書簡のやりとりによって物語が進む。最近、対談本を立て続けに読んでいてその流れもある。ちょっとテンション高めな、長い長い文章を書いてみたくなった。その文章は「手紙」と言えるかもしれない。確かにブログというのは手紙の性質を持つ。未来の、あるいは今この時代を生きる誰かに宛てた手紙。特にこのブログはそういった名もない誰か(もしかしたら自分)を意識していると言えばそうだろう。

 物語も終盤、この本の決定的なトリックが明かされた直後、私はf(x)の4 Wallsを思い出した。この曲のMVはループを止めるところで終わるけれども、いつから何が始まったのかというのはわからないものだなと思う。サラ・ケイのパフォーマンスも思い出す。連想ゲームは楽しい。

 唐突だけれども(唐突でない話の始まりなどあるのだろうか)最近の私は散歩を習慣にしたいと思っている。今日は夕暮れ時に外に出て少しばかり歩いた。日中は焦がす様な日の光が怖かったので。ヘッドフォンを持っていかないことにしたのは少しばかりエネルギーを要した。音楽を聴けば、外界の音を遮断すれば、居心地の良さはキープできるけれども、得られる情報の量は格段に劣る。私の祖母は入院生活をきっかけに認知症を発症したのだけれども(まあ、年齢的に避けることは難しかったのかもしれない)よくわかる。適度な刺激がないと人は病む。だから私は外に出たい。散歩を習慣にできたらいいのだけど。黄昏時、なんて素敵な言葉ね。もう少し前だったかな。何故なら小一時間ほどベンチに座って本を読んでいたから(例の「こうして~」である)。東からの風が絶えず吹き付け、髪が西の方角へと流れる。紙がぺらぺらとめくれる。湿った暑さで滲む汗が風にさらされ蒸発していく。シロツメクサが跋扈する芝生。春から夏にかけての芝の青さが素敵。冬になると白っぽくなってまた暖かくなるのを待つ姿もいい。なんだかこれって、物言いが清少納言の『枕草子』のようでは。まあ、いいか。散歩の話。そうだった。結構色々と考えていた気がするのだけれど、何を考えていたのか忘れてしまった。構わない。「思いつく」ことではなく、「整理すること」が大切なのだから。そういえば、道の途中で鳩の死骸が転がっていた気がする。「気がする」という表現にしたのは、鳩が腐ったらこんな風になるだろうなという物体だったからで、断定することはできない。鳩も死ぬ。でも鳩の死骸を見る機会はそれほどない。彼ら彼女らはどこで命尽きるのだろう。

 散歩に出かける前は昼寝をした。幼い頃通っていたスイミングスクールの更衣室の夢だった。泳ぐことに関連した夢はよく見る。エアコンはつけず扇風機の弱モードの風にあたりながらひたすらとろとろと眠った。

 えびせんべいを揚げた。中華料理の脇に時々添えてある、ピンクのあれだ。揚げる前はピンク色をしたプラスチックの半透明な板という感じなのに、200℃の油に滑り込ませると10秒ほどでぼこぼこと膨らみ表面に浮上してくる。油で揚げているので当然油っぽいかなと思うけれども、冷めると意外とサクサクでいくらでも食べられそう。半分ほど揚げてなんとなく食べていたらいつのまにか皿から消えていた。そのうち、中華料理っぽい何かを作るのに併せて揚げて、お皿に添えたい。マヨネーズのようなこってりしたソースに合うのではなかろうか。

 書くことがなくなった気がする。というより、眠たい。

 享楽は大事ということについても考えていた。千葉雅也『勉強の哲学』より。イデオロギーの違いはありつつ、結局どうしてその人はその思想にたどり着いたのかという過程に想い馳せること。とはいえ、普段生きていて、極端な思想を持っていて、かつ、それを表明している人間に出会うということはあんまり無いのだけれど…。私の享楽が何かわからない…。とりあえず日記を書くことはこだわりの一つではあると思うけれども。あとはコレクター気質かもね。別に物知りでもなければ、オタク的専門知があるわけでもないが。集めているアイテムもないけれど、それでも。

 話は戻るけれど、散歩をするなら黄昏時か、かわたれ時がいいな。グラデーションがいい。極端であることを恐れていて、信じることに対する不信感が強いのだと思う。何かを妄信的に信じることは、他者に対して暴力を行使する一面がある気がしている。自分もそうなっていないか怖いと思う。

 ミルク飴が好きなのだが、かの飴に限らず、すべての飴に関して自制がきかない。飴を口に放り込んでは舐めがりっとかみ砕き溶かし飲み込み、次の飴を口に放り込む。煙草も酒も賭け事もやらないけれども、飴すら自制がきかないのだから、以下略。

 

 さて、こんな感じである。思ったより書けなかった。指が止まる時間が結構あった。書くことは自分を晒すということに他ならない。書かれた瞬間に他人になる言葉。生まれる距離。私はまた一つ荷を下ろす。