何かを言わなければならない気がした。何かに心寄せなければならない気がした。「〜すべき」ということはある種のまやかしでしかなく、だから、自然に起こる感情を尊重したいとは思う。翻弄されずに。そんなことを通勤電車に揺られながら考えていた朝、3月12日。

    どうしたらいいのかよくわからないまま3月11日が終わってしまった感じ。私は寝落ちてしまい、気がついたら昨日は終わっていた。そのことに安堵をおぼえている自分がいて、どうしたらいいかわからない。遠い場所のこと。遠ざけようとする自分がいて、それは間違いだと思っている。

 

 泳いだ。

 思えば10年前の3.11も泳ぐ予定だった。プールに向かう道の途中で揺れを感じた。電信柱がしなり、車がありえないバウンドをした。プールも揺れて波が立ち水が溢れてしまったそうだ。泳げるだけの水量はない。今日はもう無理ですねえ、ということになった。駅のモニターで不安そうな人々と一緒に流される家々や車を見た。車って、こんなに軽かったっけ。トミカなのかな、そんなはずないよね、あれは人間が乗る車。

 

 そこからの記憶は曖昧だ。おぼえてないに等しい。あの頃つけていた記録は捨ててしまったし、残っていたところでどうせ大したことは書いてないだろう。今もだけれど、今以上にあの頃は書けていなかった。

 

 あの頃を思い出す。あの頃から10年が経つ。あっという間のようで、しかしそこそこの月日が流れた。私は変わらないようで変わった。変わったこと、変わらなかったことに思い馳せ、そして事実を突きつけられる。あの日瓦礫の下に埋もれ、海にさらわれ、命を落とした人々の10年が永遠に失われてしまったのだ。また、住み慣れた場所から別の場所へ移らざるをえなかった人々の10年も、強制的に本来あるべきだった形とは別のものになってしまったことだろう。

 

 雨に降られる前に帰ることができた。思いの外疲れていて、裸足になるとすぐに布団に滑り込む。素足にひんやりとしたタオルケットが触れる。タオルケット、私大好き。今日も一日を終えられた。週末は何もしなくていい。よくやったね、ちゃんとたどり着けたね、えらいねと泣きそうになってしまう。

 

 みんなに肌がある。タオルケットを足で撫でる。今日が終わる。