ガム屑

 私は本棚に沿う形で横歩きをする。平積みになった本の表紙を一冊ずつ確認していく。今日はどんな本を買おう。買おうと思っていた本と買いたいと思える本。過去と未来。淡水と海水が混ざり合っていく様。その汽水域が楽しみになってきた。月一の本屋も習慣になっただろうか。

 と、私はある一冊の本に目を止める。私も知っている有名人のエッセイ。私はこの人のものの考え方がけっこう好きだ。参考になる部分もある、真似できるとは思えないけれど。そして本人の真面目さを揶揄する層が一定数いること、第一印象として胡散臭さを感じさせるところは、なんとなく私でもわかる。

 その人のアイデンティティでもあるような、その人を表す言葉がそのままタイトルになった本。その表紙にガム屑が捨てられている。

 さて。

 まず私は、周囲に人がいるかどうかを確認した。本の前で不自然に立ちつくす私。見ている人はいないか。不審な動きをしている人はいないか。ぶんぶんぶん、と首を左右に振った。どうやら怪しい姿は無さそう。それでは落ち着いて本を見よう。

 どうしたものか。私はガムの屑を見つめ、かしゃりと丸められた銀紙から懸命にメッセージを読み取ろうとした。これは表明なのだろうか。

 つまり"I hate you!"の意思表示なのかということ。私はあなたのことが嫌いです。あなたの本は読む価値がありません。他の人にも読ませません。そういう強固な、あるいは、淡く、くだらないおもちゃのような意思。

 わからない。私はその屑になんの感情も湧かない。嫌悪も拒絶も何も。

 けれど少し興味が出てきた。ガムをくちゃくちゃと噛んでいたあなたに。

 私は左手をコートのポケットに突っ込む。今朝、コンビニで緑茶の紙パックを買ったレシートがある。これならば、あるいは。

 そして次の瞬間、私はレシートを取り出すと、サッとガム屑を包みレシートできちんと覆えていることを確認してからぎゅっと掌に力を込めた。丸めて丸めて丸めた。これは封印かもしれない。二度と出てこれないように。悪意ですらない意識を。私はぎゅっぎゅっと手のひらを握った。何度も。そこに感情はない。

 軽率だったと後悔したのは本屋を後にしてからだ。ウイルスに罹ったらどうしてくれるのだ。手のひらはもちろん消毒はするとして、後は願うしかない。まあ、本屋に来る体力があるのだ、健康ではあるのだろう。そうであってくれ、ガムの持ち主よ。

 歩きながら私は、去年体験した現代アートのことを思い出していた。ビデオと、ガラスケースに覆われた展示と鑑賞者で完成する作品(芸術作品というのは、おおよそ鑑賞者がいなければ作品として成り立たないものではないか?)。ビデオの内容は短い。そして身近な風景が広がっている。一人の女性が電車に乗っている。彼女はバッグに手を入れガサゴソと何かを取り出したと思ったら、自分の隣の空席に落ちている銀の包み紙をピンセットで採取するとビニール袋に入れて大事そうに鞄にしまった。まるで事件現場であちこちに目を光らせる鑑識のように。

 彼女はこのアートの作者であり、技術を持っている。街中のゴミから一人の人間を立ち上げるのだ。動画を映すモニターの両脇に飾ってあるガラスケースには、デスマスクのような人間ののっぺりとした顔が復元されている。採取したゴミからDNAなどを取り出しその人の顔を復元できるらしい。この作品は何を伝えようとしているのか。それは観る人それぞれが受け取るものだろう。もちろん私も何かを受け取った。

 私に技術と知識があれば。あのガムの包紙の持ち主が特定できたかもしれない。どんな人だろう。年齢は?風貌は?顔の形は?性別は?

 しかし私の好奇心はここから急速に冷えていく。12月の夜は確実に寒く、買いたい本を手にした私の明日は休みなのだ!

 

 思わぬところに捨てられていたガムの話であった。

 ちなみに私はガムを食べる習慣がない。