共感のネットワーク
共感というものが、自分の体内にある神経系のネットワークを縦横無尽に駆け抜けるならば、自分のそれは、所々焼き切れているのではないかと思う、今日この頃である。
なにか自衛が働いているのかもしれない。
山を越えた向こうの、地震による悲惨な光景は(あるいは滑走路の真ん中で焼け焦げた飛行機の残骸は、あるいは情緒あふれる街並みが燃える様や電車の中の傷害事件は)時々私の心を大きく揺さぶるけれど、私は壊れない。壊れるより壊れない方がずっと良いと思っているけれど、壊れた方が人間として真っ当なんじゃないかと思ったりする。正直、どういう心持ちで生活をすればいいかわからない。他人事か否かという軸を超えた、共感の在り方を探している。私の問題であっても私の問題でなくても、何か心が動かなければならないと思ってしまう。果たしてそれは正しいのか? わからないな。
2024年の目標
目標は「その日を愛する」とした。自分の命は永遠ではなく、あいにく私にはまだやりたいことがある。そして一日を無駄にはしたくない(ただ面白く難しいことに、自発的な無為な一日というものはあると思ってる)。
体力、気力が底をついて、ゴールテープを切った瞬間倒れ込むように一日を終えることも少なからずあって、それはそういう自分のキャパシティなので仕方ないとして、そういう日であってもせめて整理はしてから意識を無くしたい。
「その日を愛する」というのは、遡れば小中学生の頃から私の願いではあった。ただ現実的かつ具体的な問題を前にそちらを優先しなければならなかった。今は? 今はどうだろう。現実的かつ具体的な問題を解決しながら向き合えそうな目標だと思う。タフになったと言えばそうかもしれないし、ある程度どうでも良くなったことが増えたというのも、あるだろう。
「その日を愛する」とは、具体的にどういうことか。その日、私はどうだったのか考えること。その日、私と私じゃないあらゆるものは何だったのかを考えることだ。納得が欲しい。言葉にしたい。手間がかかるが、やりがいはある。手段もある(日記)。
一月の行動は「靴紐を結ぶ」にした。
というのも、私はスニーカーを愛用しているだが、靴紐を結んだまま履いたり脱いだりしており、それだとやはり変なところに歪みが出たり、遊びができて足にも良くないなと思ったのだ。履くたびに靴紐を結んで、ちゃんと歩けたらいい。歩くことをおざなりにして、どうして一日を愛することができるのだろう(歩くことが好き)。
再び共感の話
すべてに対して心を寄せることはできないかもしれないが「ねえ、このことについて私はどう思うの?」という問いを持ち続けたい。共感の有無に限らず、自分の外にネットワークを広げたい。共感するかしないかでいったら、大概のことに共感できない気もする(共感ってなんですか)。
本当のところ、一年で区切るのが苦手だし心変わりも早いのだが、目標というのも大事だと思って考えてみた。