わからなくなる時

わからなくなる時がある。

たとえば、自分がどれだけの量をどれだけの音量でどれだけの声音で喋ればいいか、ぷつんと糸が切れたようにわからなくなる。

たとえば、ポケモンの遊び方がわからなくなる。どうやって遊べば楽しくなるのだっけ、いや、楽しいってどういう感覚なのだったか。それを丁寧に探るべく、年明けにもう一度ポケモンをやり直そうと思っていたりする(ポケモンSVのサウンドトラックを予約した。好きな音楽を気が済むまで聴くのが今から楽しみだ)。

たとえば、クリスマスの過ごし方がわからなくなる。何をどのようにして楽しめばいいのか。つまらないとはまた違う、わからなさがこの身を包み込む。

Oが人生で初めてケーキという食べ物に出会ったと思われる写真が届く。ケーキのデコレーションのうち、手前のクラッカーではなく奥に鎮座するいちごにまっすぐ手を伸ばす様は好奇心と欲望に正直で、私は素敵だと思った。Oは「適切なる」クリスマスの過ごし方など考えもしないだろう。

自分の「わからない」というのはある種趣味のようなものでもあって、だけど「わからない」に甘えちゃ駄目だなと思う。