「ちいかわの最新話で、ああ、人魚ちゃんは島民ちゃん(葉っぱ1)に撲殺されて煮付けにされてしまったわ」ということを日記に書こうと思って書き始めたら「撲」の右側の構成がわからなくなり、インターネットで書き順を調べる。思えば「僕」と偏が違うだけの違いで、だけど、普段「僕」の字を使うことはあまりないし、日記において「私」ですら登場しない。私的な日記めいた文章において「私は」といちいち宣言する必要はない。

 

ちいかわについて語れることはさほど多くない。目下進行中の島エピソード、セイレーンちゃんが島民を味噌漬けにしているくだりから追うようになり、ちいかわたちのことは特に可愛いとは思わない(セイレーンちゃんは可愛い)。可愛くないとも、思わない。

東京駅のキャラクターストリートを通りがかったときに、ちいかわショップ(常設かどうかはわからん)に長蛇の列ができてて、列に並ぶ誰も彼も大きなビニールのショッピングバッグにちいかわグッズを入れて会計しようとしていることにびびったことはよく覚えている。ちいかわだけでなくグッズをたくさん買うことがほとんどなく、未知の領域過ぎるのだ。

殴り殺されちゃったな、人魚ちゃん、と思う。そのあとに魚(のようなもの)の煮付けが登場しているから、殺されてしまったことはほぼ確定で(上半身は生きてて魚の部分だけ再生する可能性は、あるか)そこに対する悲しさよりも、あの瞬間の空気感みたいなものに私は惹かれている。

たくさんのコンテンツが世の中にはあって、例えば「人の首が文字通り飛ぶ」殺し方はフィクションにおいては珍しくないのに(それもどうかと思うが)「ガツン」「バシバシ」「ボカ。」という3つの音だけ表現される殺しの始終と、その後のなんともいえない余韻は、不思議と中毒性があって不気味だ。首が飛んだ方が残酷だし派手だと思うのに。そもそも何かを殺めることは、その内容に問わず等しく悲しいことなのだが。

乗り掛かった船なので、少なくともセイレーンちゃんがどうなるのかまではこの物語を追いたいと思っている。