コメント

コメントについて考えていた。何故私はこういうコメントに引っ掛かるのだろうか、と。

インターネットでライブ配信を観ることがある。ジャンルは様々で、タレントの駄弁りにジャーナリズム、ゲーム関連に音楽もあるかな。今、同じ時間を共有している、ということについて、特別に感動することはなく(心が動くとしたら触れ合えるくらい近く共にいるときぐらいじゃないですか)「未来は今作られる」という感覚に惹かれてのライブ配信だ。

ライブ配信でも動画でも、コメントは非表示で一切見ない、見てやるものか!と思っているのに、時々覗いて「被弾」する。どうしてあなたはコメントを見るのよ、と苦々しく思うけれども、だって好奇心が疼くし、同じものを見た他者のコメントは「壁」なのだ。暗闇で恐る恐る手を伸ばし、指先に触れる壁。自分はここにいて、こういう形をしているのだという実感。

そして傷つく。その傷はかすり傷レベルの大したことのないものであることが多いけれど、積もれば体は疲弊して、数時間は寝込むレベルになるかもしれない。

傷つくことは、まあ、仕方ない。気になるのは、私は何に傷つくのか、ということだ。

面白いことに、悪意のあるコメントはそこまで痛くない。理に適ってないからだ。むしろ問題は、本人はいたく真面目に、揶揄する気持ちもなく、正直な、若干ずれたあるいは深度が異なる(つまり浅い)コメントだ。そしてそれを当事者が見る場所で投げる心意気に、痛むらしい。

人は間違える。私も間違える。それはそういうもので悪いことではない。だけど、自分は100%正しくて、相手は100%正しくなくて、その前提で投げられるコメントは、会話のきっかけとなり得るのだろうか。私の考えすぎか? このコメントを投げた人はどういう気持ちでこのコメントを投稿しているのだ? 何をしたいのだ? 何を生み出したいのか? 当事者に何を伝えたいのだ?

ということを、そういうコメントひとつひとつに対して考えるので疲れるらしい。そして答えが得られることはない。私はコメント主ではないから。そして、今までライブ配信やら動画やらにコメントをしたことはまったくないのだから。

そもそも何を以て「浅い」とするかも難しい。浅いって何。深いって、何。それこそ、私は自分の意見が正しいとでも思っているのかしら? それこそ、私が軽蔑する人たちと同じではなくて? 

私は、あらゆる物語において、存在する物語を第一にせず(蔑ろにして)自分に引き寄せ、解釈過多に陥って夢想に浸るスタイルが嫌い。何故嫌いかというと、それは私の好きな物語を毀損するあり方だから。

修行が足りない。深度を調節する必要がある。自分の考えがある。人がそれと違うことに対して特には思わない。むしろ、何が、何故違うのかを考えたい。層が異なると感じても、高低差すら考えたい。高低差はある。しかしそれは優劣の差ではない、価値も変わらない。

ここ数日、様々な激しい考えが飛び交うトピックがあるけども、他の人はどういう気持ちなのだろうか、嫌だなあ、という「感情」にだけフォーカスして疲れている。まず大切なのは、私はその問題に対してどう思うのか、どう振る舞うのか、ということで、他の人の考えはマジで二の次である。

引き続き、修行修行。