マスクをしている

再三書くのだが、私は電車に乗ることが好きだ。こう表現してもいいかもしれない、「自分は電車に乗ることを好きだ」と思っている人間だ。これはとても、そうだな、幸福と言っていいことだと思う。恵まれている、とも。電車に乗ること、それを嫌いになる決定的な経験が無い(あるいは嫌いになったとしても少ない、あるいは忘れられる)ということだからだ。

今日も電車に乗る。予めルートと電車賃を調べておく。そうする必要が無いと言えば無いのだが(何故なら数駅離れたところに行くだけだし、料金は知れている)あえて調べる。それも含めて電車に乗るという体験だから。

電車に乗る。隅の方に身を置き、車内を見渡す。老若男女様々な人々が電車に乗っていて、マスクをしているのはその1割か、甘く見積もって2割ほどだった。そして、私はマスクをしている。

どうしてマスクをするのか。つい最近同じ職場で働く人が新型コロナウイルスに罹患したからか(ちなみに発症から3日目でも38℃台の熱とのこと。嫌だなあ、そんな高熱)。その前からマスクはしているので関係ないと言えば関係ないだろう。

もう私にとってマスクとは、幽霊みたいなものだった。概念とも言えるかも。洋服とも言えるし、食べ物とも。つまり、疑うことのない、存在。いや、むしろ、新型コロナウイルスというものがそういう存在なのかもしれない。何をすれば避けられるのか。罹ったとしてそれがどうなるのか。自分の身に降り掛からなければ雲の上のような存在、しかしそうやって遠ざけるのは間違っている存在。

わからないからマスクをしている。でも、わかる日は多分来ない。社会全体がわからないを受容する方向に行っているから(もちろん今現在も必死で研究している人がいて治療している人がいて治ろうとしている人がいるのはわかる。わからないというのは、市井の人々目線て、新型コロナウイルスとはどういうものなのかわからなくなってしまったということ)。

いつまでマスクをするか、わからない。今は商業施設や交通機関を利用するときにマスクを利用し、コンビニではしなくなった。コロナに罹患したくないという強固な意志があるわけでもなく、理由として挙げることがあるならば、夏の不快さよりコロナに罹患した時の面倒くささが私の中で上回るからだろう。もちろん、面倒臭いで済めばいいのだが。それ以上のひどいことになる可能性がある病だ(病と言っていいのかな、いまいちしっくり来ない)。惰性でマスクをつけ続けた行く末は、どこに辿り着くのかはわからない。そんな考えを持ちながら1割2割に属する。