人間している日記

 引き続き日記(めいたもの)生活。それなりに忙しい日もあったのだけど、工夫と気力で1日1ページ、みっちり何かしら書いているの、狂気と言えば狂気なのか? でも、大事ではないだろう。大切なのは自分にとって日記(めいたもの)は何か、ということだ。私には日記(めいたもの)を続ける才能があった。

 人間をするのが疲れる。他者の日記を読むのは好きな方なんだけど、読むと、あーこの人も人間しているなあ、と思って落ち込む。という私のこの文章も、どうせ人間をしている日記に読めるのだ。別に人間していないのに。隣の家の芝生は青い、みたいな、そういう話なのだろうか。

 「今日私これをしました」というのを、私は書きたいわけじゃなくて、書きながら考えているから書かざるを得なくて、自慢をするつもりなんて毛頭なく、他の人がどういうモチベーションで日記を書いているかわからないけれど、自慢をしたって絶対いいはずで、落ち込む私と、自慢したい誰かは絶対お互いそれぞれ存在していいはずだ。

 落ち込むのは私が自分の人生に納得がいっていないからでしょうか。いいえ、違います。私は私のやりたいことをやっているもの。落ち込むのは色々理由はあるでしょうけど、どうしても顕示したくなる、人の性、みたいなものに、じゃないでしょうか。自分のうちに留めておけないそれを弱さとは言わない。ただ「うるせえよ」と思ってしまう自分がどこかにいて、それはなんでだろうなと同じ場所に戻ってきてしまう。

 1日1ページのノートの効用。毎日が楽しい。始める前も楽しかったけど、より楽しい。楽しい。そしてその先に何があるだろう、新しいことをしないといけない。

 もう自分は若くないのだ、と思う。それを書くと語弊がある。一応20代であるからして、若いと言われる年齢ではある、か? 衰えを感じたというわけでもない。ただ、2023年になって、色々と自分の御し方が見えてきて、折り合いがついたことで、ああ、もう折り返しなんだな、と思うわけです。折り返しとも違うな。また別のフェーズ。遠くに行きたい、この場所から消えたい、という考えから、もう大体満足したしいいか、死んでも、という感覚への変容。言うてその時が来るまでは死なないですよ、だって勿体ないですもん、と思うのだけど、ある程度満足しちゃっているという事実(そして今この瞬間余命を突きつけられたなら、私はひどく狼狽するだろう)。私はここからどう生きたいのだろう。

 そういうことをたまには考えて、たまにはこういう場所で書いてもいいものです。人間している日記にいらつくのであれば、それはきちんと自分の中で何故いらつくのかを考えましょう。思うに、わかりやすさに嫉妬しているの。キャラクター化できない生。人はわかりやすくないのだが、書くことによって、ある部分でわかりやすくなることができる。編集し、間引きし、強調される。読むときはわかりやすく絞られたものを読んでいるが、自分の実生活は当然そんな風にわかりやすくないので不安になるのだろう。これでいいのだろうとか、惑う。今のところはそういう分析だが、今後も要注目。