知ることをめぐる考察

知ることについて考えたい。

私は「知る」ということは大切だと思って生きてきた。何故か。ひとつ、知ることで他者に対して優しく、言い換えれば、他人を傷つける機会が減ると思ったからだ。知ることで想像することができる。想像する力があれば、他人に優しくあることは、わかんないけど、少なくとも知らないより傷つける機会は減ると思った。私は碌でもない人間なのでそうでもしないと他人を傷つけるだろうと思ったことがあった。まあ、実際傷つけていないかというと、多分傷つけてるけど。ふたつ、知ることで生きやすくなると思うからだ。知ることで、知らないことによって被るリスクを減らせると思う。知ることで物事は相対化していき、自分の状況を客観視できると思う。総じて知ることは尊い

話は変わる。私は何故か働いていて、何故か後輩がいる。仕事において私より経験が浅い人がいて、私はその人より業務において知っていることが多い。

後輩を指導するときの独特の居心地の悪さをどうにかしてくれ、と思う。自分は果たして適切に指示したり、時に指導できているのだろうか、行き過ぎてはいないか、やり過ぎてはいないか、ずっと考えているし、考え続けるべきだと思う。それがたとえ私にとってそこそこの負担だとしても考え続けるべきという方向性に変わらない。

知ってる人が知らない人より偉いのだろうか、ということについて考えたい。私が知ろうとするのは、他人より優れた人間でありたいからではない。全部私の為、私の好奇心、私のわがまま、私の知恵、そして戦術。誰かを「タコ殴り」にしたいわけではないのに、私は時に誰かを論破することができる。「殴った」ときの心地よさはたまらないだろうな。悲しいとも思うけど。物を知らない(と私が思っている)人が知らない状態である事情を私は知らない。それは私の関与するところじゃない。もちろん、知る環境が与えられていない、そういう構造上の問題は私は私に無関係だとは言わせないけど。その人が知らないのを私は知らない。だから「なんであなたはそんなことも知らないの、勉強してよ、努力してよ」と憤るのはおかしい。関係ない。私には、関係ない。

時に、自分は正しい、ということを錯覚する。年功序列なんて言葉があって、年を重ねた人たちの言葉に敬意を示すのは、生きればそれだけ経験値があって正しさの蓋然性(という言葉は正しいのかな)が上がるから? そうかもしれない。経験は力だ。でも、正しくないこともある。間違うこともある。私たちは間違うことがよくあるのだということを、年齢の差に惑わされず、どれだけ心に留めていけるのか、というのが今後の課題だと思う。生きれば生きるほどの課題。後輩が正しいこともある。私が間違うこともある。人を「殴って」いる場合じゃないと思って、この文章を書いている。

教えることに伴う力が怖い。そういうこと、したくない。

「私は正しい」と思っているより、「私は間違っている」と思うことの方がずっと気が楽で、ずっと楽しい。

物をよく知っている=持ち物がたくさんある、という錯覚なのではないかと思う。物を持っている方が偉い、物を持っている方がすごい、という、それはずっと昔からそうだった。人間ってどうしてそういう生き物なのだろう。

とはいえ、反知性主義も違うわけで、結局「いかにして人より偉くなるかゲーム」をしているに過ぎない。その盤の上にいる限り駄目だ。他人を転覆させようという魂胆が駄目。

「私は馬鹿な女になってやらないからあ!」と思うことはあまり無いが(向学心だけ持っていればOK)思ってもいいかもしれない。喧嘩をふっかけられたことは特にない。物を教えてやるから跪けと言われたこともない。その調子で私だって「あんたは馬鹿だねえ」なんて絶対言っちゃいけないのだ。そもそも私が何を知っているのだ。