男の子になりたかったわけでもない女の子

読んだことがない上で言及するのは憚られるが、松田青子さんの『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』は、いいタイトルだなと以前から思っていた。

 

つまらない話をする。考えながらこのテキストを書き始める。

 

自分は「男の子になりたかった女の子」かというとそうではなかったと思うし、今も特定の性に対する「なりたい願望」は無いと思う。かといって、自分の女性性に対する恨みつらみも特になく、「性別なんて私にとってどうでもいい」とすら思わない。一番近いのは、どうでもいいとすら思わないという「無」ではないだろうか。

私は自分の性に違和感はない。思春期の頃はあれやこれや多少は考えていた気もするが、反応することが面倒で早々に捨てた。

いわゆる「普通」の(普通の、って言葉を使うときに笑っちゃうのはなんなのだろう。この言葉のおかしさと、でも使わずにはいられない必要性の差に私は笑ってしまう)女性に起こるイベント、結婚だったり出産だったり、あとは女性特有の病気のリスクだったりを考えたときに、あまり自分ごとのように感じられなかったのは昔からで、結婚願望以前に恋愛感情というものがよくわからないから、その前段にすら立ってないからなー私、と思ってた。恋愛感情がよくわからないというのは、恋愛感情が無いと言ってるのではなく、ただ言葉通りよくわからないということです。恋愛してるみんな、すごい。

女である私が、男性になりたいかというとNoで、女性でいいのかというのもNoで、じゃあ私に何があるのかというと「憧れを抱く女性は少なく、いつも男性に憧れを抱いていた」ということだろう。それは男性になりたいというわけではなく、男性的なエッセンスを要所要所で取り込みたい、ということであった。

 

スカートは要らなかった。パンプスが苦手だった。可愛くなろうと思ったことは一度もなかった。いつも身軽にスニーカーを履きたかった。魔法のステッキよりもかっこいい剣がいいと思った。性別関係なく対等でありたかった。

私にあるのはそれぐらいで、今現在、何かに邪魔されてるとは感じないが、満たされているかというとそれも違う。辺りを見回してもこの絶妙な濃度を共有できる人を見つけられない。お手本とする人が見つからない。ならば自分で自己実現するしかないのだろうと思う。

 

男性に憧れるのは何故か。それは異性愛に繋がるものなのか。それもよくわかっていない。憧れるといっても、憧れるのは男性の表面的な部分でしかなくその人にではない、というのが、なんというか我ながら厳しいなと思う。欲しいわけではない、真似したいだけ。少しだけ口に含んで、ぺっ、と路上に捨ててしまっているような、そういうもの。自分が嫌だからその対極にある、という考えでもなさそうで「ああいう風になりたい」というシンプルな憧れなのだろうか。引き続き考える。

 

難しい。私でさえ難しいと感じるのだから、私以上に苦労している人は大変ではないかと思う。

さて、これを読む人は自身の性と在り方に違和感を持ったことはないのだろうか。それはどういう状態なのだろう。聞いてみたい。