友だちがいない方向

「友だちいないのって、結局のところ駄目じゃね?」

 音ゲーでパーフェクトコンボを出してよっしゃあと心の中でガッツポーズしていた私は、唐突にそんなことを思った。音楽を鳴らさずに音ゲーをしていると、時々何か思いつくことがあるのだ(音を鳴らさないのは、音楽を聴くこと自体がエネルギーを消費することだから)。

 先に言っておくと「友だちがいないです」「それが何?」という話である。

 友だちのいない子どもだった私は、友だちがいないということについて私なりに真剣に考え、その結果、一つの結論を導き出した。それは「友だちがいなくても別に生きてていい」ということだった。友だちの不在は私の存在を否定する理由にはならず、友だちがいないことは、ある側面で考えれば駄目かもしれないが(それを書きたい)、私という存在が駄目ということにはならない。そもそも人間は、駄目だろうが駄目じゃなかろうが、生きるしかないのだが。

 「友だちがいない」というのは一つの状態である。人間の中には友だちがいる人もいるが私は友だちがいないと思っている。この差異は何から生まれるのか。私の性格? 容姿? 振る舞い? 価値観? 環境? たくさんの要素を一つひとつを考えていく。「友だちがいない」というのは、要素のうち何かが足りないか、あるいは何かが満たされているからか。

 私が「友だちいないの駄目じゃね?」と思っているのは、私の欠点が要素として大きいからではと思っているからである。人と打ち解けられない、自己開示できない、ひねくれているし、面倒なことが嫌い、エトセトラ。その欠点を直せばもしかしたら、治野2.0になり、友だちができるかもしれない。でも、それをやらないのは私の落ち度でしょう? ということ。明らかにできていないことがある。できていないなら私はそれを「駄目でしょう」と言う。

 難しいな。うまく言葉にできている気はしない。

 私は結構忙しい。友だちと遊ぶことはほとんどないが、毎日なんだかんだで忙しい。傍目から見るとガラクタにしか見えないだろうなということについて考えるのに忙しい。行きたい場所もあるしやりたいこともある。これは友だちがいない方向に最適化してしまった人間の、なれの果てでは、と思ってしまう。

 自意識を肥大化させてもろくなことにはならない。「友だちとは」なんて考えているから私は駄目なのだろうけど、考えたくなっちゃうのだから仕方がないね。そして、私は友だちはいないけど、やっぱり友だちはいた方がいい。絶対いた方がいいと思うんだ。最後に、ル・グウィンのエッセイのタイトルを引いてこの文章は終わりにしよう。

「暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて」