春の気晴らし

 そりゃあ楽したいですから混雑していなければエスカレーターに乗る私、でも行列ができているとおとなしく階段でのぼる。今日も改札口に上がるための長い長い階段をのぼっていたところ、息が切れないことに気づく。日頃の散歩のたまものだろうか。今日の歩行距離はおおよそ13㎞。

 

 言葉が苦しいと思う。違うな、ニュアンスを正確に伝えることは難しい、無理。大事なのは、私ではあり得なかった方向へ「飛ぶ」ことなのだから正確さは最初から度外視。ただ、いつも疲れる。伝えるという行為はいつも裏切られることに他ならないと思ってしまう。そこに拘泥しないこと! だけど執着してしまうのだな、人間だもの。

 村上春樹を読んでいる。2023年になって人生で初めて(と言って差し支えないと思う)氏の物語を読んでいる。読みながら、なんかうぜえなと苛々してくる。嫌な感じではないけども。読んでも読んでも終わらない。章に分かれてるので、休憩しながら読む。ディテールへの苛々? 村上春樹の世界は、一枚の風景画の上を滑る視線。電車は川を渡った。とととん、とととん、と一定のリズムを刻む。

 次に乗る電車まで90分。駅を出てカフェに入る。酸味の強いアイスコーヒーを飲んだ。あとはジェラート。おいしい。

 

桜。

 

川。

 

誰か。

 そして眠い。このまま死なせてくれと思わなくもない。宇多田ヒカルの「誰にも言わない」を延々と聴きながらテキストを探っている。水面を見ると、とろとろと鴨らしき鳥が泳いでいる。可愛い。やっぱり、問題は他人の感情の様な気がする。気にしすぎるというか、いや、他人がどう思おうが知ったこっちゃないが、変に想像力を膨らませる、ところがある。それは優しさじゃない。共感でもない。他人の感情に興味があるわけではないのだから。昔から同じところを堂々巡りしている。できることは、低減とエネルギーの保持と思い込みを解くことぐらいで、でも解決したいのよな、そういうことでしょう?

 気晴らしを続けること。