赤いコンパクトデジタルカメラ

 車通りの多い大通りを渡るために、私は横断歩道の手前で信号が青になるのを待っていた。北風が強く吹き付ける冬のある日のことだった。遠くの空は冴えないとぼけた水色をしていて、雲が斑状に浮かんでいる。

 私はそれをぼんやりと眺めながら、早く信号が変わらないかなと考えている。風は時折、体を根こそぎ(私に根があるわけでもないのだが)搔っ攫っていくかのように強く吹く。体は刻々と冷えていく。一刻も早く静止している状態から解放されたかった。信号はまだ変わらない。車を淀みなく流していくことの方が大事なのである。

 私の横に男が並んだ。横目で男を観察していく。黄色いヘルメット、緑で印字された○○電工の文字、カーキ色のチョッキに灰色の作業着。不躾すぎるかもしれないと思い、そこまでで止める。

 信号が青に変わった。私(たち)は道を渡る。いたって普通の日常だ。と、渡り切ったところで男がくるっと背を向けた。信号を渡るという行為に似つかわしくない機敏な動きだったので、私も思わず振り向く。男は、今しがた渡ったばかりの横断歩道をコンデジで撮影していた。赤い旧式のモデルだったと思う。横断歩道と、対岸の歩行者用の信号機を何枚か撮っている。青信号が点滅した。私は何故かその光景に満足感のようなものを覚え、再び振り向くと歩くことを再開した。

 家々のあいだを縫う道を歩きながら、私は先ほどの赤のコンデジについて考える。物に欲望するということ。早い話が、私は「それ」を欲しいと思った。そして「それ」とは何なのだろうか。赤いコンデジではない。いや、赤のコンパクトデジタルカメラだけではなかった。冬、冷たい北風が吹く日に青信号を渡った。作業着姿の男。仕事中なのだろう、おそらくは電線工事関連の作業の下見。そしてコンデジスマホではなく!)。それらを含めて私は欲しいと思った。あの男性になりたいというわけではなく、観察する立場を維持したまま欲しかった。しかし、あの僅かな時間をどのような形であれば残すことが可能なのだろう。写真? 映像? 絵? 無理だ。文章でさえ不十分だった。けれど、文章でなら私は自分の記憶を補完できるだろう。だから、私はこうして文章を書いている。