カピバラになる日もある

 先ほどから半分に切ったりんごをシャリシャリと食べている。大量にりんごがあって、それを調理するのも面倒、皮を剥くこともくし形に切ることも面倒。仕方なく私はりんごを半分に切って、皮ごと食べることにする。

 面倒くさがり屋かそうでないかと聞かれれば、私は面倒くさがり屋だと答える。でも、思うのだけど、面倒くさがり屋というのは、一般的に普通の人は面倒くさがらないような些事を面倒くさがるのを指すのであり、普通の人が面倒くさがることを、面倒くさがり屋は面倒くさがらないということは往々にしてあるのではないか。例えば、私は電車に乗るということが面倒に思えて、1時間ぐらい歩いて移動することがある。そちらの方が楽しいからだ。

 りんごにかぶりつく。その時だけ齧歯類の気持ちになれる。愉快。前歯でがりっと果肉を削り、咀嚼してすり潰して胃に流し込んでいく。

 シャリシャリさせながら、私は飽き性ということについて考える。

 飽き性だからこそ気軽に新しいことを始められる、ということはあると思う。新しいことを始めたら、飽き性ではない人は飽きないだろうから比較的それを長く続けられるのだろう。半分に切ったりんごを皮ごと食べるだなんて、長く続けるべき事柄じゃない。丁寧に皮を剥いてくし形に切ったりんごを上品にフォークで食べる食べ方の方がずっと優雅で、顎が疲れない。

 りんごが無くなるのが先か、私がこのワイルドスタイルに飽きるのが先か。いずれにせよ、長くは続かないのだという気楽さは、己のフットワークの軽さにつながる。性分を生かしたやり方を試行錯誤するのもまた楽しいと思うことにしよう。