緑色のインク

 「死んでやるう!」と唐突に叫ぶと、十三子は机の上のインクに手を伸ばし、蓋をきゅぽんと捻ると、口をがばっとひらいて中身を注ぎ込もうとしたので、晶は驚き、急いで彼女の手を押さえた。

 十三子が愛用するインクは、藻を限りなく増殖させたものを濾したような色をしていた。

「一体どうしたんだい、馬鹿な真似はやめてくれよ」

 晶は十三子に言った。そもそもインクで人は死ぬことができるのだろうかと一方で考えながら。

 死ぬことができなかった十三子は両手で顔を覆い、さめざめと泣いている。華奢な手首は透けるような白で、関節のところだけほんのりとピンク色に染まっている。

「ほら、落ち着くんだ。何か飲むかい?冷たい水はあるかな」

「要らないわよ」

 は、は、と息を落ち着かせながら十三子は手の甲で涙を拭う。

「要らない。あんたの顔なんて見たくもない」

 えらい言われ様だ。晶はため息をつく。

「私も大概だけどさ」

 十三子は言う。彼女はすっかり落ち着きを取り戻していた。いつもの十三子だ。

「あんたも大概だよね」

「なんだって」

「自分は面倒ごとに巻き込まれた被害者だ、って思ってんでしょ。どうしてこんなめんどくさい女と関わっちまったんだ、って。自分に何か非があるなんて思ってないでしょ」

「そんなこと、」

「ないって言わないでよ、面白くないから。いいから、とっととこの部屋から出ていって。むかむかする」

 本人から直々の許しが出たのだから堂々と出ていきたいところだが、ここで死なれたら晶が困る。この女なら最期に晶を巻き込むことなぞ平気で実行する。インクを飲んで死なないとわかると、いよいよ包丁を取り出して己の腹を裂くだろう。

 台所の方をちらっと見ると、すかさず目線の動きを拾われた。

「あんたが居なくなったあと、私が死ぬっての? 死なないわよ。今日はもう死なないわ。死ぬ気がなくなった。安心してよ。じゃあ、こうしましょう、明日朝いちばんでフレッシュネスバーガー買ってきて。ほら、生きる気があるように見えるでしょう? 私、食べたことないの。食べるまでは死ねないわ。ああ、明日が楽しみ」

 十三子は早速わくわくしているようだった。素晴らしい思いつきに一人ぱちぱちと小さく拍手をしている。

 晶は十三子と目を合わそうする。二人の眼差しが刹那、交わった。途端に十三子の顔は能面のように真っ白になった。残念ながらその顔からは何にも読み取れなかった。

「わかった」

 晶は立ち上がると、フローリングの上にぺたりと座っている十三子の横を過ぎ、振り返って言った。

「ごめん」

「謝る気がないならそんな言葉言わなくていいのに」と十三子は言った。

「それを言われたら何も言えないよ」と晶は幾許か力を込めて言いかえした。十三子にこう言われてしまったら、謝罪の言葉はいよいよ溶けてなくなる。

「僕はどうすればいいの」

「出てって」

十三子は二度と晶を見ることはなかった。

 

 フレッシュネスバーガーでは一番ポピュラーなバーガーとポテトのセットを選んだ。

 飲み物は何にするかと聞かれたので、晶は一瞬考え「スプライト」と答えた。炭酸ならなんでも好きだといつか言っていた。

 十三子は消えていた。

 マンションのエントランスで呼び出しても応答がなかったので、合鍵で自動ドアを開け、7階へ上がる。玄関ドアを開ける前にもう一度鳴らしたが反応はなかったので鍵を開けて入った。ここまでは十三子と決めた「ルール」通りで、問題はなかったはずだ。

 いつもなら布団を被ってすやすやと眠りこけているベッドは、綺麗に整えられていた。ベランダの窓は開いていて、新緑の風がカーテンをそよそよと揺らす。

 テーブルの上にマグカップが一つと、メモ書きが一枚。カップの中身は飲みかけのコーヒーのようだった。飲みながら書いたのだろうか。
 
晶へ
バーガー買ってきてくれてありがとう。
私は少しの間家をあけます。いつ帰るかはわかりません。
時々ベランダの窓を開けて換気をしてもらえると助かります。
PS. 買ってきたバーガーは公園のベンチに座って食べるといいのではないでしょうか。きっと気持ちがいいですよ。
 

 晶はそのメモを手に取ると、右手でぐしゃぐしゃに丸めた。

 一緒に居ては身がもたないと、晶は思った。

 ベランダの窓をカラカラと閉めるとき、書き物机の上に置いてあったインクが無くなっているのに気付いた。十三子が持って行ったのだろうか。踵を返し、晶は十三子の部屋を出た。

 スプライトの氷が溶ける前に公園にたどり着けるか。晶にとって、五月の土曜日は始まったばかりだ。

*** *** ***

喜ばしく、また厄介なことに、万年筆用のインクというのは使っても使っても無くならないもので、緑色のインクはいつまで経っても無くならない。

私はフレッシュネスバーガーを食べたことがなく、機会をうかがってはいるもののいつも忘れてしまう。あれを食べずには死ぬに死ねないと思う(あとバーガーキングも食べたことがないので食べてみたい。そのうち)。