汽水域

私は駄目かもしれない、と、いや、駄目ではないのでは?の狭間を長らく生きすぎたあまり、もはやそこに悲しみを見出せなくなりそうな今日この頃である(悲しんでいる場合ではないといえばその通り)。

読む本が無くなってしまったので(嘘です、まだ4冊読みかけの本がある)図書館に駆け込み、いい感じに本を借りることができたので私はじゃがいもである。じゃがいも? 満足であるということ。じゃがいもはいい。形がある。潰しても美味しいけれど。私は町のお祭りの屋台で食べるじゃがバターが好きだった。あんなに大きなじゃがいも、スーパーには置いてない。

他の人はこういう悲しみを抱いた上で気丈に振る舞いながら生きているのかしら、と、不思議でならない。どうして耐えられるのか、わからない。そもそも悲しくないのかしら。どうして?