花を添える

 元気だ。いつだって私は「元気」だけれど。

 元気というより、落ち込まなくなったということかもしれない。いや、何も感じなくなったのかも。

 

 世界卓球をYouTubeのLiveで観戦していた。卓球台という限られた空間で繰り広げられる、技術と戦略を駆使した対戦。あのわずかな時間で、選手同士の高度な駆け引きなども展開されているのだと思うが、私はそれを読み取ることができない。面白かった。あの空間のすべてが興味深い。

 コメント欄が気になった。すべてのコメントが、というわけではないが、7割ぐらいのコメントが醜悪なものだった(残りの3割は「やったー」とか「頑張れ」とか、そういうものだ)。

 コメントをしている人たちより、画面の向こう側で卓球をしている人たちの方がずっと卓球のことを考えているし、卓球が上手いはずなのに、なんだ、その上から目線、と思う。てめえらは何様のつもりだ。

 同様の構図は卓球だけではない。私たちはあらゆることについて専門家ぶることができる。事実、専門家ぶっている。身体が隔離されたデジタルな空間でそれらは先鋭化する。根底にあるのは、自分が正しいという考えなのだろう。自分が見ているものが真実。自分の感じているものは真実。自分が考えたことは真実。「いいえ。そんなことはありません」その考えもまた真実ではない。

 

 おそらく私は素直な人間なのだろう。一方で、いわゆる逆張りみたいなこともする。

 昔から小説に親しんでいた自分にとって「小説を一度飲み込む」というのは自然なことだった。は?こんなのありえないじゃん、などというツッコミをするなら小説を読む必要なんてなかった。まずは出されたものを食べた。

 作品を驚く形で曲解する人たちがいることにびびる。そこには「出されたものを食べる」という姿勢がないように思う。おそらく彼ら彼女らは、自身の考えに引き寄せる形でコンテンツを消化する。でも私はあんまりそういう風には読んでなくて、ひたすらに作品に引き寄せられてしまうのだった(それはそれで度が過ぎると危ないが)。

 

 私は自分が正しいとは思えないのだけれどな。あるのは「自分が正しいと思ったことをする」だけだ。その正しさは私の個人的なものであり、個人的なものであるからこそ間違っている。必ず。

 言葉を吐くということは、私にとって「墓前に花束を手向ける」のがイメージとして近い。

 広大な海の岸辺に私は立つ。両手で花束を持っている。海の近くの生花店で何本か花を見繕い、束にしてもらったものだ。海岸に打ち寄せる波はとても穏やかだ。音もほとんどしない。海と地の境界に進むと、水面に花束を浮かべた。すぐに波が花束を運んでいく。沖へ、沖へ。

 言葉を吐くというのは、そういうこと。

 

 何も感じなくなった。というか元々感じてなかったのでは。「感じ」が深いところに潜行している感じ。なのでペンと紙を使って「感じ」をサルベージする作業が必要になってくる。何故サルベージするのかというと、あまりに「感じ」がたまってしまうと、それが腐敗して毒気を発し体にまわることで弱ってくるからだ。弱るのはまずい。

 

  ふと、そんなことを考えていた。