20220903

 隙あらば川だったり海を見に出かけてしまう(帰路です)。

おそらく天竜

 松の並木を抜けた先には

 

 海。

 

 私は出かけているときの自分が好きだが、それは何故か、どうしてそのような状況が生まれるのかを考えたとき、多分できることが限られているからだろうと思う。

 スマホなどデバイスを使うにしても限りがある。トンネルに入ればつながらないこともあるし、バッテリーは有限だ。私は出かけることを楽しめる。有限であることは制約ではなく楽しみを強化するスパイスになる。できないことがあることで、できることが深められ、充実感が増すのだろう。できることが増えるということは、意識が散漫になり注力できるエネルギーも分散する。動画コンテンツなど、見なくて済むなら見なくて良いのだ。

 

 松の並木を抜けると、堤防がそこにはある。コンクリートの堤防を上がると、眼前には空と海が広がっている。同じ青でも、空と海では性質が異なり、軽やかな空に対してべったりと重たさがある海の青であった。風が強い。絶えず海から吹き寄せる風が心地よい。日の光も相当強いのだろうが、風が吹いていることでそこまで暑さを感じない(油断しているとおそらく体調を崩す)。意識的にもも味のいろはすをからだに流し込む。温めることはいくらでもできるが、冷たさは何かに逆行している。夏のお出かけの道中に遭遇する冷たいものはどれも悪魔的な魅力をはらんでいる。いろはす、うめえ。

 堤防の縁に腰掛け、しばらく海を眺める。そこには何もない。ただ目の前の景色を眺めていれば良い。大らかさに身を浸す(人間が死ぬときもこういう感覚だったらいいのだけれど…)。

 電車の時間が迫っている。名残惜しいが、その名残惜しさを認識する前に縁から降りて歩き始める。本格的に名残惜しさに向き合ってしまったら、おそらく帰られなくなるから。

 これで終わりなのだと悟った。今回のお出かけはこれでおしまい。気が済んだので、海に背を向けて、松の並木の細い道をたどり、駅へと向かう。