返信はかぼちゃの煮物

食べられない食べ物はパクチー、食べられるけど極力食べたくない食べ物はかぼちゃの煮物。

久しぶりにLINEが来たと思ったら「環境が変わりました」という報告で、ったく、みんなみんなどこかに行ってしまうのだよなぁ…と思いながらさっさとメッセージを考え送信する。送信ボタンを押して、緊張の糸が解ける。体も脳も弛緩する。もう、今日仕事しなくていいですか。やる気にならない。

虚脱状態でしばらく伸びていた。ぼんやりと考える。この感覚、見覚えがある。と、糸をたどっていたら、なんだ、かぼちゃの煮つけを食べるときと同じじゃないか。

 

はやくそれが終わるように。

何も考えずに心を無にして。

とりあえず食べる。

 

私のとってLINEというのは大体はそういうものだ(慣れた相手はもちろんこの限りではない)。心理的負荷が高い行為。メッセージを組み立てようとすると途端に頭が鈍るし気分が悪くなる。相手が嫌いだとか好きだとかは関係がなく、ああ、私は人間関係を構築するのが苦手だったと思い出す。

余計なことを考えてしまう。相手に嫌われたくないという考えはもしかしたら深層にはあるかもしれないが、少なくともメッセージを考えるときは意識していない。私らしい言葉。相手が想像する「私」に自分を寄せる作業。語彙。絵文字は使う?使わない? 相手は今何をしているのだろう。何を考えているのだろう。どんなことを見てきたのだろう。考えることは尽きない。私は思考の海に溺れそうになり、必死でもがき、書いて、消して、書いて、送る。

そんなことを毎回のメッセージでやるものだから当然疲れる。逃避の既読無視をして罪悪感が増す。悪循環だ。まったく嫌になってしまう。

だから、かぼちゃの煮つけ状態はまだ良いのである。以前は食べないで捨てることもあったのだから。嫌いなものはさっさと食べて、頑張った私の好きなことをした方が、多分生産的だしトータルで考えれば楽なはず。

世の中には息を吸って吐くように相手とコミュニケーションできる人もいて、私はそうでない。ただそれだけのことをそのまま受け止めるのに、さてどれくらいの時間がかかっただろうか。もっと自分の痛みに自覚的かつ肯定的でも良かったなあ、と随分前の私に対して労りの気持ちが生まれる。

私の個人的な関係の網目で絡まっている人間。彼ら彼女らについて考えるのがひどく辛いというのなら、そろそろ山に篭ったほうがいいのでは? と思ってしまう。あるいはこの辛さを忘れて忘れて忘れるしかないのだろうか。