徒然にカレー

 昼休憩に芝生の上でカレーを食べることにした。カレーを調達する。カレーをGETして移動。ビニール袋に入ったカレーは油断するとどんどん傾いてしまう。バランスというものは何事も難しい。

 と、唐突にケーキを食べたくなる。しかもこれからカレーを食べるように芝生の上で。町の小さなケーキ屋さんで二つほどケーキを買う。無論、どちらも私が食べる。何故二つ選ぶのかって、たった一つのケーキを箱に詰めてもらっても面白くないからだ。だから私はケーキを二つ買う。食べられるのなら三つでも四つでも。そうしてケーキが入った箱を持ってやっぱり同じ道を歩くのだ。芝生の上でケーキを食べられたらどんなに楽しいだろう。

 ラジオの音が聞こえる。どこから? アスファルト沿いの小さな空き地。ぼうぼうと生い茂る雑草に埋もれながら何やら作業をしている人。頭には麦わら帽子。私からはその背中しか見えないが、おそらく雑草取りでもしているのだろう。空き地にはトタン板でできた小さな倉庫のようなものがあって、その外壁につけられた棚の上に小型のラジオがあった。ラジオいいよね。昔昔『魔女の宅急便』のキキが持っていたような赤いラジオが欲しかった。今は要らない。ラジオの聞き方は知っているし実際に聞くこともあるけど、ラジオの聞き方がわからないから。いつか聞けるようになったらいいのだけど。

 歩きながら人権について考えていた。人権? 人権。幸いなことに身の危険を感じたことはないけども、もし今この瞬間刺されたとして(そういう想像を時々する)私はそれなりに生きたいと思うから救急車を自分で呼ぶし(それどころではないかもしれないが)できるだけのことをするつもり。だけど一方で、刺されたら刺されたまでだよな、とか思ってしまう気がする。怒りが足りない。この足りなさは一体何なのだろう。

 そう。関連して、世の中には、怒る人と怒らない人、怒る人はさらに怒りを表明する人と、表明しない人で分類できる、と思った。ケースバイケースで人はそれぞれを行き来すると思われるが、私は多分怒らない人ではないか。まあまあ、とか。そういうこともあるよね、とか。そう思ってしまいそう。ぜんぜんよくない。それはやさしさなんかじゃない。自分に対するやさしさ、果ては甘えだとしても、他人に対するやさしさじゃないと思っている。よくない。だから、私は怒ることができる人がすごいと思うし、その人たちを邪魔するようなことはしてはいけないんだ、と思う。

 人権と怒り。怒りが足りない。主張できない。それは私だけが私の人権を認められない、みたいな感覚。他の人の人権が侵されるなら、それはちょっと待ちなさいな? とならないといけない。ただ、他ならぬ私のことはどうでもいいかもしれないなと思って、自分を大切にしているのだか大切にできていないのだか、そういう感覚が欠如した人間を生み出すと世の中ろくなことにならないかも、でも「自分のこと大切」が衝突するから果ては戦争が生まれるのだろうか。いいや。自分のことを大切にできない人間は他人のことも大切にできないから、やっぱり自分のことは大切にしないといけないよ。

 そこまで考えて芝生が見えてきた。レジャーシートを持つのも面倒で、別でビニール袋を持ってきて尻の下に敷いて空を眺めながらカレーを食べた。トッピングでゆでたまごもつけた。私は金を余分に払っただけだが、得意な気持ち。

 クローバーの群生。青い空。風がそよぎ、幼子が少し離れたところでこけた。私は何もしていない。魔法でいたずらもしていない。芝生だったので大して痛くなかったみたい、その子は特に泣くことなく、傍らの女性がかがんで幼子の服や手についた土を払う。カレールーに沈ませたゆでたまごをスプーンですくって食べる。カレーはおいしい。息抜きは大切。

 息抜き。「自分を取り戻せ」というのとは少しニュアンスが違うが、少しばかり渡していた自分を自分の方に寄せ、肩の力を抜いて考えるってのが息抜きになるし、そういう時間を必要としているっぽい。誰かと接していると、どうも慌ててしまう。そのあたりの仕組みは、いまだによくわかっていない。